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「家」の研究――黒田家

暗愚、押しつけ養子、早世、すり替え…天下の軍師の家も跡継ぎはままならず(2/3ページ)

菊地浩之菊地浩之

2019/10/25

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6代目で途絶えた官兵衛の血筋、あとは何でもありでお家存亡

そんなわけで、黒田家はどうにか続いていったのだが、長政から数えて6代目で血脈が途絶えてしまう。

6代・黒田継高(つぐたか)の男子が相次いで死去してしまい、外孫(娘の子)から養子を選ぶべく交渉していた。ところが、ここで「御三卿」(ごさんきょう)の一橋徳川宗尹(むねただ)が自分の5男を黒田家の養子へと自薦してきた。宗尹は長男と3男を越前松平家の養子に出し、4男を跡継ぎにしたものの、まだ5男が残っており、どこかの有力大名の養子に押し付けようと虎視眈々と狙っていたのだ。

余りの強引なやり方に、継高は数ヶ月保留し、ささやかな抵抗を試みるが、結局押し切られてしまう。かくて、宗尹の5男・黒田治之(はるゆき)が7代藩主となった。ところが、その治之は在位12年、わずか30歳で死去してしまう。

おいおい、あの騒動は何だったのかよ。しかし、重臣たちは呆れているヒマなどなかった。治之に跡継ぎがいなかったからである。跡継ぎがいないまま、藩主が死去すると、無嗣廃絶(むしはいぜつ)。これもお取りつぶしになってしまう。そこで、重臣たちは治之の死を秘匿したまま、京極家から養子を迎えて、素知らぬ顔で世代交代を報告する(京極家は鎌倉幕府以来の名門で、黒田家はその分家筋だと名乗っている)。

ところが、その養子も半年後に死去。再度、一橋徳川家から黒田斉隆(なりたか)という養子を押し付けられるが、これもわずか19歳で死去してしまう。19歳で死去したが、斉隆には幸い子どもがいた。黒田斉清(なりきよ)である。しかし、実際は斉隆の子が女子だったため、黒田一族の子どもを連れてきて、すり替えたのではないかといわれている。もう無茶苦茶である。

そして、斉清もやはり男子に恵まれなかった。福岡藩では度々にわたる一橋徳川家からの「押し付け養子」に辟易(へきえき)しており、他の有力大名の子弟を物色し、薩摩藩主・島津重豪(しげひで)の9男を選んだ。黒田長溥(ながひろ)である。これには後日談がある。長溥は養子になった後、しばらく養父・斉清と面会できなかったという。父子間を疎遠にさせて、ふたたび「御三卿」から黒田家へ「押し付け養子」を送り込もうとする陰謀があったからだという。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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