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まちと住まいの空間14回【宮城県・江島】

消えつつある離島の集落の成り立ちを追う①(3/3ページ)

岡本哲志岡本哲志

2019/07/31

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島での暮らしを支えてきた生活環境


写真3、天水利用するためのコンクリートの貯水槽

2015年6月時点、江島は多くの建物が取り壊され、その数は28戸ほどに激減。すでに、多くの人たちが暮らす場ではない。訪れた時は、江島の港が護岸整備をほぼ終えていた。

先にある石段状になったメインの道を上がり、集落に入る。この道から枝分かれして、右左にさらに細い道が地形を読み取るように斜面に延びる。途中に「大井戸」と呼ばれてきた井戸がある。この井戸は、水量が豊富で水質もよく、水道が引かれるまで島民の貴重な飲料水だった。飲料水以外はなるべく天水に頼ってきた歴史がある。今も樋から水をためるコンクリートの貯水槽を見かける(写真3)。

亀山慶一氏(宮城県石巻市出身の民俗学者)が「宮城県牡鹿郡女川町江島」において、森洋子氏(美術史家)による昭和40年調査(『しま』45号)を紹介しており、井戸の数と水質の善し悪しがわかる。それによると、飲料水に使える井戸は3つだけで、1つは学校専用の井戸とのことだ。実際に井戸の所在を確認した。11の井戸が確認でき、水道の普及もありほぼ井戸の数に変化がない(図3)。昭和40年調査では、共有が8カ所、私有が3カ所、多くが飲料水に使用できず、洗濯などの雑用水として利用していた。


図3、井戸と祠の分布


写真4、メインの通りと赤いポスト

飲料水に使えない多くの井戸は、大井戸からはずいぶん離れており、水を運ぶ労を軽減するためにやむなく井戸を掘ったと思われる。水汲みの重労働は、昭和42(1967)年に井戸を水源とした簡易水道が整備され、5年後の昭和47年に出島経由で内陸から海底に引かれた配管を通して送水されるまで続けられた。3.11以降は、地震の影響で海底に引かれた水道管のサビがいつまでもおさまらず、昔ながらに井戸の水を利用したと島民の方が話してくれた。

メインの道を上ると、赤いポストが置かれている(写真4)。今は取り壊されてないが、郵便局が近くにあった。島の人たちは、この道を必要に応じて何度も行き来してきたのだろう。150戸以上の家が建ち並び、それらの家から港に導かれるメインの道であった。集落に多くの人たちが住んでいたころは、郵便局の他、米や酒、日用雑貨を扱う店が点在していた。旅館や民宿もこの道沿いにあった。旅館では米や塩、酒などの販売もしていた。斜面の道を上がり切ったあたりには、豆腐、缶詰、日用雑貨などを販売する店もあった。多くの人が行き来するにぎやかな通りだった。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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