ウチコミ!タイムズ

賃貸経営・不動産・住まいのWEBマガジン

まちと住まいの空間14回【宮城県・江島】

消えつつある離島の集落の成り立ちを追う①(2/3ページ)

岡本哲志岡本哲志

2019/07/31

  • Facebook
  • Twitter
  • LINE
  • Hatebu

島の方に話をうかがった後、単に魚場が豊かであるだけでは許されない離島という現実を感じた。

江島に暮らしてきた島の方たちのほとんどは、現在石巻などの陸側と島との二重生活。人口流出が特に目立つ状況になった時期は3.11以前からという。村田裕志が「宮城県牡鹿郡女川町—江ノ島」において戦後の江島の人口流出の経緯を完結に次のように書き記す。「一九六〇〜七〇年代に遠洋漁業船へ乗り組んだ青壮年層の多くが家族をともなって本土側に居住するようになり、さらに八〇年代には女川原子力発電所建設の補助金を手元にして島外他出の傾向がいっそう強まり、一九九〇年前半には島の年少がほぼ皆無」の状況に。

島を出る外部要因として、漁業の変化、原子力発電の問題が切っ掛けであるとしても、生活面での止むに止まれぬ決断があった。島のお年寄りは、子どもや孫との交流のために陸続きの内陸に家を建て、漁の時期に島に戻った。また、島には中学校までしかなく、高校、大学に進学する子どもたちは都会へ出ていく。彼らの働く場も島にはない。3.11以降は島を出た子どもたちが親を引き取るケースが増大した。島の暮らしがしみついたご老人は、島に戻るとほっとするという。「子どもたちを島に呼び戻したら」との問いかけに、「それは考えていない」と迷いなく、しかもキッパリとした言葉が返ってきた。離島が成立しない様々な社会環境が現代社会にはある。

中道等氏(大正から昭和にかけて活動した郷土史家、民俗学者)が昭和初期に江島を訪れ、その時の印象を「陸前江の嶋雑記」に記したなかで、次のような文面がある。

「戸数が百四十四、人口が約一千九十人とある。人は年々増ゑるし家を建てるとなると困難が伴う、どうだ女川の埋立地へ移住しないかと勧めても、いやだとて誰一人動こうともせぬ」

これからは多くが離島を望む今日との隔たりを強く印象づける。

次ページ ▶︎ | 島での暮らしを支えてきた生活環境 

  • Facebook
  • Twitter
  • LINE
  • Hatebu

この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

ページのトップへ

ウチコミ!