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まちと住まいの空間

第2回 かつて島だった佃にいまも息づく生活の匂い(2/2ページ)

岡本哲志岡本哲志

2018/07/25

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江戸と現代が混在


道の要所に置かれた井戸ときめ細かく通された路地

佃は、正保元(1644)年に鉄砲洲東の干潟を埋め立てて造成し、四周を海に囲まれた島であった。

その歴史は、徳川家康が大坂から漁師を呼び寄せ、造成した島に住まわせた時からはじまる。町の鎮守は大坂の住吉から勧進した住吉神社。隅田川と3方を掘割で囲まれた町は、北から南まで約150メートル、江戸町人地の街区をひと回り大きくした程度の規模が現在に至まで建設当初のまま変わらずに維持され続けてきた。その中央を南北に、住吉神社の参道も兼ねたメインの道がある。この道でさえ、一見路地と思わせる道幅だが、町全体が人の歩くための道に他ならないから、むしろ最適といえよう。その両側に短冊状の敷地が割られた。敷地の幅はおおむね7~8メートルで、路地もほぼ等間隔に通された。要所には井戸が配されている。背後に抜ける路地のある風景は絵になる。

人が暮らす適正な空間


建物のなかに設けられた井戸

佃は町人地における敷地の仕組みと似ているようで大きく異なる。江戸時代、佃の敷地規模は200平米前後、奥行は30メートル強で、町人地の敷地規模の約半分と小さい。また、町人地である日本橋や京橋、銀座の路地は、ほとんどすべてが敷地内の中央だけであるが、佃は敷地の境界にも路地が通された。住民は、仕事と生活の2つの路地を使い分けることで、路地が多様化し、漁師町独特の構造をつくりだした。

佃の町には漁師を営んでいた時の建築が今も残る。老婦人が、あたかもマグロの解体ショーのように、建物のファサード(建築物を正面から見た外観)が分解できると熱っぽく語る。その話は、私にとって圧巻だった。

地元の人にとっては何をいまさらと言われるかもしれないが、日本家屋の自由さを佃で感じ取れたことは新鮮な驚きだった。老婦人の好意に甘え、建物の中を見せていただくと、土間の中央に井戸が据えられていた。現役だという。現代の凝り固まった不自由な空間に比べ、建築が自由さを発揮している。


巨木に守られた地蔵尊

佃の路地は幅が狭く、1メートルにも満たない。その一つ、人がやっとすれ違えるほどの路地奥に、永い時を刻む巨木に守られた地蔵尊のある空間は印象的だ。自然と共生してきた町の姿が垣間見られる。東京下町では多くの掘割が失われ、佃の掘割もかつてから比べればわずかである。ただ現在も、掘割と町とが呼応しながら織りなすヒューマンな空間は居心地がよい。東京が人間にとってオーバースケール化しつつある対極に佃がある。

 

 

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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