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「シナケレバナラナイ」ことがつくり出す「ディストピア」願望――心を解放させるために必要なこと

遠山 高史遠山 高史

2021/01/21

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イメージ/©︎lculig・123RF

世の中にあふれ続ける「シナケレバナラナイ」こと

「〇〇シナケレバナラナイ」病が増えている(実際にはそんな病気は存在しない。念のため)。

最近、この「〇〇シナケレバナラナイ」というフレーズに食傷気味なのは、私だけではないと思う。

とはいえ世の中、シナケレバナラナイことだらけである。

例えば、食材の産地の説明、処方薬のすべての副作用、手術で起こりうるすべてのことの説明などはもちろん、契約書のくどいくらいの説明、家を建てたり、商売を始める際の周辺住民への説明、駐車場で起きた事故の責任は取らないとの表示、工事現場についての危険の説明、公園の遊具の手すりが外れる可能性の表示、用水路やため池の防護柵に登るなの表示、などなどきりがないが、最近は、マスクは着用シナケレバナラナイ。消毒はコマメにシナケレバナラナイが加わった。今の日本は「〇〇シナケレバナラナイ」にあふれているのだ。

そうしないと、些細な行き違いやトラブルをきっかけに、たちまち攻撃(炎上)されてしまう。昔は、せいぜい陰口か、紙に書いてばらまく、くらいのことだったのに、パソコン、スマートフォン、SNSのおかげで手段が増えた。いったんターゲットにされたら、完全に防ぐことは、ほとんど不可能である。

この結果、「シナケレバナラナイ」ことに、スペースをとられて、私たちは心の余裕を失っていく。

「普段、人間は脳の10%しか使っていない」は大ウソ

昔のSF小説か何かで、人間は普段脳の10%しか使っておらず、残りの90%を使えればスーパーマンになれるという話があった。残念ながら、それはフィクションの世界のことで、実際のところ、人間は脳全体を使って情報処理をしている、というのが定説である。

脳細胞は有限な物で、当然処理できる情報量も有限である。にもかかわらず、人間という動物はめったやたらに情報を取り入れたがり、あまつさえ作り出したりもする。中途半端に大きい脳みそをもってしまったせいだろうか。脳は何かを詰め込んでおかないと委縮する性質があるので、ひとまず情報を詰め込んでおこうとするのだろう。
そのためか、どうも、詰め込むことの方に関心が高いようだ。「捨てる」ということをあまり脳は好まないのかもしれない。 
しかし、実は後者の方がより重要なのだ。

陶芸をイメージするとわかりやすい。一塊の粘土から茶碗を作りだす時、必ず余分な粘土を削りとる。本当に必要な部分を抽出するために、余分は削り落とされなければならない。でなければ、永遠に形は定まらず、それは一塊りの粘土のままである。情報も多ければよいというのでなく、十分な削除をしたのちの残った情報に意味があるのだが。

この自明の理があるにもかかわらず、人間は自ら生み出した情報の渦の中で溺れかけている。そして、さらに「シナケレバナラナイ」ことがらをせっせと生産し続けている。つまり、情報への対処に情報を増やすことで対処しようとしているのである。

心をすり減らして、私の外来を訪れる人が後をたたないのも、この辺に原因がありそうである。

本来ならば、「シナケレバナラナイ」ことよりも、「しなくても良い」ことを探したほうが、エネルギー効率が良いし、理にかなっているのかもしれない。ただ、これは経験と想像力に基づいた判断力が必要で、「しない」ということで悪い結果を招いたらと不安にもなる。「しない」ということは恐怖なのだ。とにかく、「しておけば」ひとまず不安は減る。ゆえに、いろいろしなくてはならないことを並べてみる。

しかし、いくら科学が進んだとて、未来は予測できないし、世に中で起こることの多くは数学のテストの問題のような、明確な正解はない。結局、誰もが最悪の未来を恐れて、予想しうる可能性を網羅的にリストアップし、その全てに備えるべきであるとして、かたっぱしから盲目的に実行するという方法をとる羽目になるが、これには莫大なエネルギーを投じなければならない。

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フラストレーションを一気に開放したいという願望

とはいえ、牧歌的であった「その昔」に戻るには、人間は増えすぎたし、社会は複雑になり過ぎた。

物資は溢れ、飢え死にすることはめったになく、寒さ暑さを知らぬ環境を手に入れたはずなのに、人類の憂いは消えるどころか、増加する一方だ。しかも、その悩みの原因といえば膨大な「シナケレバナラナイ」ことで疲れ果てているせいが大きいと思えるが、もはやどうにもならぬところまで来てしまってはいないだろうか。

近年、フィクションの世界で、強大な悪役がやってきて、世界中を破壊するというストーリーが増えている。ビルを壊すくらいでは収まらず、都市が丸ごと消し飛ぶような派手な描写や、破壊されつくした後の、いわゆる「ディストピア」を舞台にしている作品も、数多い。

「シナケレバナラナイ」ことだらけの世の中に対するフラストレーションが吐き出されているのではないかと思う。人の心の内は、単純には説明できない。誰しもが、平和を望みつつ、この七面倒くさい世の中を滅茶苦茶にしたいという願望を抱えて生きている。

本当に滅茶苦茶になったら大変そうだから、皆、日々、何かを抑え込んで、なんとかやってきているが、いずれ「シナケレバナラナイ」ことで、息ができなくなる日が来るかもしれない。

その昔、師の一人が、決断を恐れて、あれこれと対策を練っては、悶々とする私を見かねて言った。

「予測できないことにおびえるのは、まったくバカバカしい。人生のロスだ。君が悩んでいる事柄は、宇宙から見れば、些細なことだと思うがね」

まことに至言であると思うが、もはや過去のことである。

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この記事を書いた人

精神科医

1946年、新潟県生まれ。千葉大学医学部卒業。精神医療の現場に立ち会う医師の経験をもと雑誌などで執筆活動を行っている。著書に『素朴に生きる人が残る』(大和書房)、『医者がすすめる不養生』(新潮社)などがある。

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