放課後をスタバで過ごす子どもたちから奪われるもの(1/2ページ)
遠山 高史
2021/05/20
イメージ/©︎lsantilli・123RF
絶対にケガをしない安全安心な遊び場
近所の公園の遊具に立ち入り禁止のテープが巻かれていた。
滑り台が2台と、登り棒と吊り橋、トンネルのついた大型の物だ。夕刻、小学生たちが群がっていたから人気があったのだろう。老朽化で危険だということだそうだ。
同じものが新たに設置されるのかと思っていたが、しばらくして、低めの滑り台になっていた。
最近の我が国の子どもたちは、あまりに保護が行き届きすぎているようにも思える。
スリルに満ちた、ワクワクするような遊具で怪我でもされたら責任問題となるから、公園や学校のグランドから絶滅しつつある。学校帰りの社交場であったはずの駄菓子屋は、巨大なショッピングモールのなかか、コンビニの一角に収まってしまった。
現代っ子の放課後の集合場所は、スターバックスだというから驚きである。そこで何をするのかというと、アイスクリームなどなめながら、宿題をしたり、スマートフォンで(絶対に怪我をしない)バトルゲームをしたりするのだそうだ。
どんなものでも遊び道具にかえてしまうのが子ども
誠に不幸なことである。気の毒なことである。それは迫害のレベルではないか。
本来、子どもというものは、棒切れ一本、石ころ一個でも、工夫をこらし、遊びを発明できる。野原があれば、花をむしって冠にするだろうし、打ち捨てられた建材でもあれば、たちまちのうちに、そこは秘密基地か、もしくは大海原を航海する海賊船になるだろう。
ところが、今ではなんでもかんでも大人が先回りして、不潔そうなもの、不健康そうなもの、危険だと思われるものを排除してしまう。代わりに、あちこちにボタンがついていて、勝手に喋り出すロボットや、王公貴族顔負けの衣装を備えた人形が与えられる。
最初から全てお膳立てされているというわけだ。これでは、想像力が育つ隙間すらないというものだ。まして、モニタから得られる映像からでは……。
懐古主義と言われる方もいようが、それだけではない。
人間に必要な想像する力とは、五感すべてを使ってこそ育まれるものだ。
田んぼの泥を拝借して泥団子を作ることは、整えられた環境化で、すでにできあがった玩具をいじることに勝る。田んぼの泥と、プラスチックの玩具では、そもそも含んでいる情報量が違う。
不定形で、不安定な泥を好みの形状にするためには、それなりに苦労しなければならず、コンディションは常に変化する。匂いも触感も、味すら一定ではない。決められた動きしかしない玩具では得られぬものが、そこには確かに存在するのである。
友だちと、沼にハマって、ドロドロになったり、ジャングルジムの上で陣地の取り合いができればなおいいだろう。今にも得体のしれぬ化け物が飛び出してきそうな暗がりにおびえながら、草をかき分けるときの高揚感や、絵具を溶かし込んだような色の練り菓子を口に入れたときの、得も言われぬ美味さを、友人と分かち合いながら子どもたちは、相手の気持ちを汲むことを覚えていくのだ。
この記事を書いた人
精神科医
1946年、新潟県生まれ。千葉大学医学部卒業。精神医療の現場に立ち会う医師の経験をもと雑誌などで執筆活動を行っている。著書に『素朴に生きる人が残る』(大和書房)、『医者がすすめる不養生』(新潮社)などがある。