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まちと住まいの空間 第38回 ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり⑨ ――高度成長期の東京、オリンピックへ向けて(『大東京祭 開都五百年記念』より)(4/5ページ)

岡本哲志岡本哲志

2021/07/15

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街頭パレードの賑わい

ディズニーランドにお株を奪われ、現在は街頭でのパレードが影をひそめているが、それまで記念行事のパレードといえば街頭が付き物であり、盛大なものだった。

銀座通りでは、平成11(1999)年に「音と光のパレード」が終焉するまでさまざまなパレードの舞台となる。私の年代では、パレードといえば銀座通りをイメージするが、銀座の「音と光のパレード」は明治百年を記念し、「大銀座まつり」(主催:銀座通連合会)として昭和43(1978)年からで、はじまったのは昭和39(1964)年の東京オリンピック以降である。

丸の内には「道路」と呼ばれた2つの通りがある。ひとつは、東京駅から皇居に向かう「行幸道路」(現・行幸通り)。天皇が列車で全国を行幸するために東京駅開設とセットに整備された道である。いまひとつは、現在の馬場先通りを含め、皇居正門石橋に延びる道が「凱旋道路」と呼ばれた。

日露戦争(1904・05年)後、戦勝祝賀のパレード(1905年5月)は丸の内の凱旋道路(現・馬場先通り)で盛大に提灯行列が行われた。そのとき、熱狂した一部の人たちが馬場先御門に詰めかけた。敵侵入を阻む馬場先御門の閉鎖的な枡形門内に殺到したことから、20人もの圧死者を出した。

この事故後に馬場先御門が撤去され、一丁倫敦(ろんどん)と呼ばれた煉瓦の街並みを抜け、皇居正門石橋に向けて凱旋道路が明治39(1906)年に延長整備された。オープニングの朝、生徒たちが清掃していた場所である。

開都五百年記念の『大東京祭』では、メインのパレードが丸の内の凱旋道路で行われた。凱旋道路を中心に進行する数々のパレードは、毛槍(けやり)を先頭にした大名行列、相馬野馬追(福島県南相馬市を中心に開催)で勇姿を見せる鎧兜に身を固めた武者行列、江戸町火消しの行列と、江戸時代をイメージさせる。


都庁舎前の武者行列と観衆 出典/『目でみる東京百年』東京都、1968年より

街頭でのパレードは、さらに日比谷公園から出発した学生たちの街頭モデル大行進、駐留軍軍楽隊のブラスバンドと、時間と場所を変えながら次々と画面に登場する。東京の周縁部では、各企業が趣向を凝らした花自動車によるパレードも華やかに繰り広げられた。企業にとってはオリンピックとの関係で重要なデモンストレーションの場となる。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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