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まちと住まいの空間 第38回 ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり⑨ ――高度成長期の東京、オリンピックへ向けて(『大東京祭 開都五百年記念』より)(2/5ページ)

岡本哲志岡本哲志

2021/07/15

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祝賀記念式典

「開都五百年記念祝賀式典」と書かれた横断幕の背後に映る東京都体育館では、多くの参列者が集まるなか、高松宮宣仁親王(1913〜87年、大正天皇の第3皇子)、喜久子妃(1911〜2004年、父・德川慶久〈慶喜の七男〉)夫妻が列席し、安井誠一郎(1891〜1962年、都知事歴1947〜59年)東京都知事の挨拶で祝賀式典がはじまる。その後、鳩山一郎(第3次鳩山一郎内閣の時代〈1955年 11月22日〜1956年12月23日〉)中西都議会議長、内閣総理大臣などへと挨拶が続いた。

東京都体育館は、昭和39(1964)年の東京オリンピックで体操会場となり、日本男子体操が団体2連覇を成し遂げる。個人総合では男子の遠藤幸雄、女子のチャスラフスカ(チェコ)がそれぞれ金メダルを取り、大いに東京オリンピックを盛り上げた。この体育館は昭和31年当時唯一既存の東京オリッピック関連競技施設でもあった。オリンピック誘致を視野に入れた大規模なイベントには、東京都体育館がデモンストレーション会場として重要視された。

「開都五百年記念祝賀会々場」は、東京都立公園の清澄庭園内、大正記念館と涼亭に場所を移す。関東大震災で焼失を免れた数寄屋建築・涼亭(1909年竣工、保岡勝也〈1877〜1942年〉設計)をまず池越しに撮り、メイン会場の大正記念館宴会場へと映像が移る。

深川の低地にある清澄庭園は、元禄期(1688〜1704年)に活躍した豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷からのスタートである。享保年間(1716〜36年)には下総関宿藩久世家下屋敷となり、現在の庭園の原型が築かれた。

明治11(1878)年になると、三菱の岩崎弥太郎が荒廃した下屋敷跡の土地を手に入れ、庭園の再生を図る。弥太郎は全国にある三菱の鉱山から珍しい石が出たら庭園に置く旨を社員に示した。現在の庭園にはそのときに集められた全国の珍しい石が配されている。兄の死で2代目三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は、明治24(1891)年に庭園の池に仙台堀川の海水を引き込み、汐入庭園としての趣を復活させた。

大正記念館は、東京市(現在の東京都23区とほぼ同じ範囲)が清澄庭園を公園としたとき、大正天皇の葬儀のために新宿御苑に建てた葬場殿(葬儀に向かう参列者の待合室)を移築する。しかし、昭和20年の東京大空襲で焼失してしまい、貞明皇后の葬場殿の材料を使い再建された。昭和31年当時の大正記念館はその姿を映す。


清澄庭園の池と大正記念館、大正天皇葬儀の時の葬場殿 出典/『大東京写真帖』1930年より

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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