まちと住まいの空間 第35回 ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり⑥――震災直後の決死の映像が伝える東京の姿(『関東大震災実況』より)
岡本哲志
2021/04/19
ひとつひとつのシーンから伝わる震災直後の人々の息づかい
国立映画アーカイブが所蔵するフィルムには、今回取り上げる作品(『関東大震災実況』日活(向島)、1923年製作、20分)と同名の『関東大震災実況』(企画:文部省社会教育課、製作:東京シネマ商会、撮影:白井茂)があり、こちらのフィルムは長さは今回語ろうとする映画の3倍強もある。
雑誌『東京人』(no.351、2015年3月号)の特集「記録フィルムの東京」で、とちぎあきら氏が64分の大作『関東大震災実況』について「義捐金集めなどの目的で広範囲に普及した、震災記録映画の決定版」と記している。「火災の光景から始まり、復興に向けての取り組みに至るまで、未曾有の災害を隈なく記録に留めている」点で関東大震災関連のベースとなる作品であろうと締めくくる。
一方、日活(向島)が製作した『関東大震災実況』は同じ場面の映像が繰り返され、脈絡なく別の映像が挿入、展開したりする。全体のまとまりからすると、編集の不備が否めない。
しかしながら、撮影所の撮影技師名とともに、「決死的撮影」とフリップに記しており、映像にとらえられたひとつひとつのシーンは、映された人々の息づかい、その場の空気、さらには炎の熱ときな臭い匂いが伝わってくる。まさに実況の場に同行している感覚になる。全体のフィルムを再整理して、この映画の価値とその魅力をより増したかたちで語れればと願っている。
震災直後の東京の名所
『関東大震災実況』は生々しい映像が数多く登場する。時々刻々と変化する映像は動きがあり、迫力がある。この映画に登場する場面は、大まかに18カ所(蔵前は異なる時間帯にもう一度撮影)である。
図/主な撮影場所
これらの場面は3つの異なる日時で撮影された。「火災が起きる前の地震直後」「火が猛威を振るいはじめるころ」「火がおさまった直後」である。
撮影当時どのようなルートをたどり撮影されたのかは、編集段階で撮影したフィルムの順番がさまざまに入れ替えられ、同じ場面が繰り返し登場するなど、判断を難しくさせる。しかも、頼りのフリップが適材適所に、映像をフォローして挿入されていない。ただ、撮影隊が辿ったルートを明らかにすることで、ひとつひとつの光景がより意味を持つはずである。
映像を読み解く視点として、知名度の高い東京の名所が意識して撮影されていることにも注視したい。たとえ残骸となっても、よく知られた建物が映されると、誰でもが場所を理解しやすい。同じに見えてしまう被災風景だからこそ、名所を映すことは特に重要となる。
『関東大震災実況』でも、東京名所を拠り所に、被災時の特異な場面が撮られている。
例えば、着の身着のままの人たちが瓦礫のなかで洗濯するシーンは、震災後どこでも見られた。絵葉書にも登場するシーンだが、場所がなかなか特定しづらいケースに出合う。この映画では、撮影に工夫がなされた。
隅田川越しに両国国技館を映し、駆体だけが残り内部が完全に焼失した光景へと近づく。痛々しい姿になったとはいえ、明治42(1909)年以降新名所として注目されていた両国国技館。その建物をバックに、全てが焼失し瓦礫と化した風景に移行する。映像はさらに手前にズームインし、瓦礫で洗濯する人たちの光景をとらえているのである。
映像のはじまりは火災が起きる前の「日本橋」
最初のフリップは「一望千里 絶滅セル 大東京市」。タイトルとしてはあまり馴染まなかったようである。一般には『関東大震災実況』というタイトルが現在通用している。次のフリップでは「日活向島撮影所 撮影技師:高阪利光・伊佐山三郎 決死的撮影」と撮影者が紹介され、「決死的撮影」の文字が付け加えられる。
この2枚のフリップが出てから、地震直後の日本橋周辺の映像が流れる。名所として、最初に浮かんだ場所が「日本橋」だったようだ。
日本橋付近の中央通りでは人々が不安げに車道の中央に集まる様子をとらえ、中央通りから裏側の道に入り込むと、土壁が崩れかけて道を覆う風景に変化する。撮影隊はさらに南に歩みを進め、日本橋の上から江戸橋方面の日本橋川とその河岸を映す。
絵葉書/日本橋と日本橋川河岸
左手に魚河岸、右手奥には煉瓦造りの三菱の七ツ蔵。ここは地震前と変わらない風景が視界に入る。日本橋川にはすし詰め状態で人々を乗せた多くの船が浮かぶ。被災から船で逃げようとしているのか。
そして、「九月一日の 大東京 火の海」のフリップ出ると、フィルムの色がブルー系からオレンジ系に変わる。
これは現像のときに意図して着色をほどこしたのだろう。日本橋辺りの中央通りから撮影隊が移動した先は、塀に囲われた街並み風景となる。門の前では女性たちが不安げに近所の人と話し込み、男性は火事に備え路上に家具などを慌ただしく持ち出す姿が映し出される。ここは後で登場する炎に包まれた街と同じ場所である。
フリップには「蔵前高等工業学校(現・台東区蔵前1-3-57)及其の附近ノ惨状」(映画の後半に登場するフリップ)と書かれている。屋敷を板塀で囲った風景は、お屋敷町のようにも見える。
大正5(1916)年に製作された一万分の一の地形図で確認すると、蔵前高等工業学校付近で板塀を巡らせた街並みはその南側にある花街の柳橋以外に見当たらない。
火が猛威を振るいはじめた蔵前・浅草
火事がまだ発生していない日本橋通りを撮影した後、撮影隊は距離が近く花柳界として名の知れていた蔵前の柳橋を次に訪れる。
柳橋もそのときまだ火事が発生していなかった。蔵前からは8階から折れた十二階(凌雲閣)が見え、浅草六区の方面から黒煙が立ち上る光景を確認したようだ。被災した名所を映像におさめようとすれば、即座に駆けつけたい場所のひとつであった。
「浅草公園 十二階崩壊の刹那」というフリップ。
撮影隊が浅草六区に到着し、ひょうたん池越しに十二階が見える建物から、浅草六区最初の光景がカメラにおさめられた。ひょうたん池沿いの劇場街も、まだ火災が起きていない。すぐに十二階近くまで移動し撮影しはじめている。
目の錯覚か、映像には5階窓からカメラを凝視している少女の姿が見える。もうすでに亡くなっているのか。しかし、映像からは焼死したようには見えない。十二階の背後はすでに炎が猛威をふるいはじめ、火の手は劇場街へと広がりつつあった。
「娯楽の中心 浅草十二階 第一震と共に火を発す 此辺り活動写真街中心なり」
とフリップが出され、撮影隊は浅草六区が刻々と炎に包まれる様子を撮り続けた。
絵葉書/8階から折れた十二階
映像では消防団が延焼する芝居小屋にホースで消火作業をはじめているのだが、火の勢いに負けてあまり効果がない。
明治が終わるころから、活動写真のメッカとなったのが浅草六区だ。
日露戦争を期に肖像写真が爆発的に需要を伸ばし、写真館も浅草六区に集中していた。そのため可燃物が大量に集積する浅草六区はまさに「火に油を注ぐ」状況と化してしまう。そのためか撮影隊は危険と感じ移動。群衆となった人たちは北から南に吹く風に南下を避け、上野広小路から上野公園へ向かっていた。
撮影された上野広小路には、市電が急カーブする線路が映る。
絵葉書/関東大震災前の上野広小路近辺。右の建物が上野松坂屋
関東大震災前の絵葉書を参考に映像を観ていくと、松坂屋前の上野広小路では上野公園の方へと必ずしも群衆となって全ての人が逃げていない。群衆を避け、上野公園を背に比較的人の少ない南の方面に逃げる人たちが確認できる。撮影隊も群集を避け、火の手が迫る、先ほど撮影した蔵前の柳橋へと足を向けた。柳橋はすでに炎の猛威に包まれようとしていた。
撮影隊は猛烈な熱風を伴う大火から無事生還している。ここまでの映像内容を踏まえ、撮影隊がたどったルートを考えてみると次のようになる。
日本橋からまず蔵前、浅草、上野に行き、その後、炎が迫る蔵前を経由して外堀川に架かる呉服橋(中央区八重洲)を経て、丸の内に到達したのではないかと想像される。
これはあくまで映像からの推察に過ぎない。ただ、丸の内では一時パニックが起き食糧の略奪があったものの、後に各店が速やかに食料品を放出し、三菱も炊き出しを大々的に行なった。結果として、丸の内は他の下町のどこよりも生存する可能性が高かった。
地震火災後の被災地の映像――神田・万世橋~日本橋浜町~本所と隅田川船上
ここからの映像は、火がおさまり、見渡す限りの瓦礫となった光景となる。
まず、焼失後の万世橋駅とその周辺の映像からはじまる。フィルムの色がオレンジ系から、少しセピアがかった一般のフィルムの色に戻る。
絵葉書/関東大震災で焼失した万世橋駅付近
被災した万世橋駅は神田エリアにとって中心的な存在であり、この当時は名所だった。駅を背景に、被災風景のなかを往来する多くの人たちがさまざまなポイントから映されていく。
次に登場する映像は掘割沿いの巨大な建物の残骸である。突然切り替わった映像でもあり、はじめは万世橋駅から下流へ行った神田川沿いの光景と思い込む。それにしては掘割の幅が狭すぎ、これほど大規模な建物も神田川沿いでは見当たらない。
撮影隊は、万世橋駅を後にして、絵葉書にも登場するよく知られた建物を目指したようだ。それが浜町川沿いの明治座だった。被災する前の絵葉書と見比べると建物が合致する。現在の明治座は清洲橋通り沿いの東側にある。だが、関東大震災前の建物は道路を挟み浜町川に面して建てられていた。
絵葉書/被災した明治座と浜町川
映画では、浜町の住人が「水戸へ行く」と伝言を壁に書き残したシーンがあり、これからも場所の近さで符合する。
この後、両国橋(1904年開通)に映像が切り替わる。
橋の両脇に張り出すように付随していた歩道は床が抜けただけで、車道部分は損傷が少なかった。両国橋は東京の名所として知られ、震災直後も無事に渡れる橋だったため、多くの人たちが往来する。伝言用の郵便受けも置かれていた。戒厳令が発動されており、橋詰広場では軍隊の一団が休憩する姿も映る。
両国橋はそのまま修復して利用することも可能だったが、永代橋、吾妻橋など隅田川に架かっていた痛みの激しい橋の架け替えとともに、新しい橋として昭和7(1932)年に生まれ変わった。橋の一部は再利用され、現在も東京都中央区新川二丁目と湊一丁目をつなぐ「南高橋」として亀島川河口に架かり続け、旧両国橋の姿を今に伝えている。
両国橋を渡り、両国駅へ行くあたりから、フィルムがブルー系の色に変わる。編集のとき、本所の悲惨さを表現したかったのだろうか。両国駅一帯は熱風が吹き荒れたように、駅舎の形跡が全くない。
「最も悲惨なる 本所深川惨状」とフリップが入り、隅田川に浮かぶ船から残骸となった本所方面の河岸の映像が流れる。
絵葉書/河岸から見た本所方面の瓦礫と化した光景
地上からの映像に切り変わり、そこには隅田川河岸にある安田財閥の被災した邸内がじっくりと撮影されている。映像には建物の外壁だけが残り、豪奢な邸宅の様子がかろうじて想像できる。面影が完全に失せた庭園だが、不思議と石の灯籠、白さの際立つ像が何事もなかったかのようにカメラにおさまっているのが印象的だ。
安田邸近く、陸軍被服廠跡地へと撮影隊は向かう。
「本所横綱町 陸軍被服廠跡の惨死骸(死者三万二千七百六十五人餘)」のフリップ。遺体が山と積まれた光景となる。あまりに悲惨な状況を無言の映像が撮り続ける。これから荼毘にふされるのだろう。9月のまだ暑い日が続くなかで、強烈な腐臭も放たれていたはずである。
そこからは再び船上からのシーン。
「吾妻橋」のフリップが出され、船は吾妻橋に近づいて行く。遠目から被害が少ないように見えた吾妻橋だが、船が橋に近づくにつれ、被害の大きさが分かってくる。陸からの通行が難しい吾妻橋は、船の運行を可能にするために中央部分に応急措置がなされていた。
絵葉書/損傷が激しい吾妻橋
被災した東京にあって船がいかに重要な存在だったかを再確認する。映画は、船上から吾妻橋近くのビール工場(現・墨田区役所/アサヒビール本社/リバートピア吾妻橋)を中心に壊滅した市街をパノラマで映す。瓦礫と化した風景が広がる。その時、突如映像が途切れ、エンディングがないままフィルムは終わってしまう。
【シリーズ】ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり
①地方にとっての東京新名所
②『大正六年 東京見物』無声映画だからこその面白さ
③銀座、日本橋、神田……映し出される賑わい
④第一次世界大戦と『東京見物』の映像変化
⑤外国人が撮影した関東大震災の東京風景
【シリーズ】「ブラタモリ的」東京街歩き
この記事を書いた人
岡本哲志都市建築研究所 主宰
岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。