単なる入口ではない「門」に与えられたさまざまなの深い意味(2/2ページ)
正木 晃
2019/07/24
内と外を分ける門、内と外をつなぐ門
門の中では無邪気に遊ぶ子どもの姿、門の前には父親が子どもたちを救うために羊、鹿、牛が引く三種の車を用意している(東京・柴又帝釈天「帝釈堂/法華経説話彫刻」)
防御施設としての門は、宗教絵画にも見出せます。弘法大師空海を祖とする真言密教が、ブッダの教えを、言葉や理屈ではなく、視覚を通して伝えるために考案した曼荼羅が、まさにそれに当たります。
曼荼羅はたくさんの仏菩薩や神々の姿で満ちあふれています。でも、それがすべてではありません。目を凝らしてよく見ると、全体が二重三重の牆壁で、がっちりと囲まれているのです。そして、その牆壁の東西南北に門があります。さらによく見ると、門には防御を担当するので門衛と呼ばれる神々が描かれています。文字どおり、完璧な防護体制です。内部の聖なる領域に、邪悪な者どもを絶対に侵入させないというわけです。
そうかと思うと、門が内部と外部を結ぶ救いの道として設定されているケースもあります。『法華経』の「三車火宅」の章です。
この章では、わたしたちが今生きている世界は、仏の目から見れば、煩悩という猛火に覆われています。つまり「火宅」の中にいるのです。ところが、わたしたちは、自分たちが猛火に覆われて、焼死寸前の状態にあることに気付いていません。このままでは、焼け死ぬしかありません。
この「火宅」は、広大な面積の大邸宅として描き出されています。大邸宅ですから、門が複数あって良いはずなのに、門はたった一つしか設けられていません。でも、そこから出てくれば、「火宅」の中にいる者たちは皆、救われると書かれています。とすれば、門の存在に気づくか気づかないか、これが人生の分かれ目です。その門こそ、『法華経』の教えである、というのがこのエピソードのおちになります。
この記事を書いた人
宗教学者
1953年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。専門は宗教学(日本・チベット密教)。特に修行における心身変容や図像表現を研究。主著に『お坊さんのための「仏教入門」』『あなたの知らない「仏教」入門』『現代日本語訳 法華経』『現代日本語訳 日蓮の立正安国論』『再興! 日本仏教』『カラーリング・マンダラ』『現代日本語訳空海の秘蔵宝鑰』(いずれも春秋社)、『密教』(講談社)、『マンダラとは何か』(NHK出版)など多数。