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〜この国の明日に想いを馳せる不動産屋のエセー〜

水を制する者は天下を制す・不動産オーナーやエージェントが知っておくべき"土地"の素性

南村 忠敬南村 忠敬

2022/04/20

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イメージ/©︎lucapana1・123RF

拙者事で恐縮だが、公益財団法人不動産流通推進センター(国土交通省の外郭団体)が行う国家資格・宅地建物取引士の有資格者向けに設けられ、宅建士の上級認定資格と位置付けられた『宅建マイスター』称号を取得している。

資格取得者には、その後のフォローアッププログラムとしてさまざまな研修を受けることができる。この研修、受講料がそれなりに高い!(ちょっと愚痴る)が、自らのブラッシュアップのために受講しようと思い、先日、興味深い講習プログラムを見つけたので早速受講を申し込んだ(時節柄、YouTubeでの動画視聴とレポート提出が条件)。

テーマは、「地形歴史学から学ぶ —かつて日本の不動産は広大な湿地帯の中にあった—」(講師:日本水フォーラム代表理事・竹村公太郎氏 元建設・国交省官僚、河川局長、工学博士)。

現代、日本の国土の10%程度の“土地”に、人口の50%が集中し、国民総資産の70%が集約されている。所謂「経済圏」と呼ばれる五大都市圏(札幌、首都、中京、近畿、福岡)を形成する平野部においては、地形学上ほぼ例外なく沖積平野である。地球の気象は、約10万年周期で寒冷化と温暖化を繰り返しており、氷河の形成・融解がもたらす海水面の上昇、下降によって、大小無数の河川から砕屑物(礫、砂、泥)が運ばれ、山地間の谷底(谷底堆積低地)や山地を離れた平地(扇状地)、河口、沖合にかけて堆積して(三角州や氾濫原)造られたのが沖積平野である。

その昔、沖積平野は湿地帯であった。日本全土に拡がる大湿地帯が現在の姿に変貌し、国民生活と経済の中心地となったのには、人間の力が大きく作用している。その端緒として有名なのが、“徳川家康”による関東平野大干拓事業と河川改修事業だ。 

ご存じの方も多いと思うが、小田原北条氏(氏政、氏直親子)や仙台の伊達政宗を降伏させ、更には南部一族の九戸政実を岩手で滅ぼして豊臣秀吉の天下統一は完成したのが1590年。この年の夏、家康は故郷の三河を離れ(秀吉による関東移封)江戸へ遷っているが、この時、関ヶ原合戦まではまだ10年の年月を残している。この10年間、家康は虎視眈々と豊臣滅亡へのシナリオを描く一方、その後の日本の行方について、江戸を中心とした天下統一を綿密に練っていたのだろう(拙者想像)。それが証拠に、家康は関東平野の広範囲にわたって自ら(鷹狩と称して)見分し、江戸を水害から守るため、1594年には北関東の利根川水系の河川改修工事に着手(利根川東遷)している。

とりもなおさず、“河川の流れを変える”などという大土木工事を計画するということは、目先の利益などでは到底考えられない。現代の機械技術が無い時代、その工期は数十年単位であるから、家康自身が完成を目にすることは不可能。孫子の代を超え、未来永劫続く太平の世の実現を夢で終わらせることなく、現実のものとして実施計画を立てていなければできる工事ではない。

家康に違わず、戦国大名には卓越した土木工学の知見を持った武将は多い。家康を江戸に追いやった秀吉もその一人。大坂(現大阪)の地形も江戸に負けず、上町台地(上町断層の活動によって隆起した台地)以外は縄文期、古墳時代を通じて海底であったから、大坂城築城のころにおいても、今の市内中心部(難波から西梅田、なにわ筋)以西は海で、上町台地以外の多くは大湿地帯であった。武田信玄の「信玄提」に代表される河川付け替え工事や干拓工事などの土地改良土木工事技術が、武士の時代に発達した背景には、領土を収めて農地を確保し、安定財政の基盤を作る必要性が分国大名にあったからである。

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【吉原遊郭の移転と浅草日本堤】


イメージ/©︎lightfieldstudios・123RF

江戸市中に大洪水をもたらした代表的な河川は荒川(当時は大川と称された)だった。荒川の支流、入間川(現隅田川)は、現在の東京都北区・岩淵水門から分岐し、東京湾に注いでいる。この川は江戸時代から舟運の交通路として重要な役割を担っていたから、利根川のように流路を移動させるわけにはいかなかった。 

河川の治水工事の基本は、「特定の場所で意図的に溢れさせる」ことだそうである。つまり、川の下流域に被害を出させないようにするには、上流の特定区域に意図的に放流する、ということだ。

浅草寺は、この隅田川の中州に在る小丘の上に建立されており、当時で既に1000年の歴史を誇る名寺であった。ということは、1000年もの間に洪水で流された経験の無い、非常に安全な場所に在るということだ。江戸幕府はその浅草寺を治水の拠点とし、堤防を北西に延ばし、それを現在の三ノ輪から日暮里の高台につなぐ。この堤防が洪水を東へ誘導し、隅田川の左岸で溢れさせる。そうすれば隅田川の西(右岸)に展開する江戸の市街を守ることができると考え、1621年真土山(現待乳山)から客土を運び、堤防を造ることとなった。これが「日本堤」である。

一方、幕府開設に伴って人口流入が著しい江戸では、住人の男女比が男7:女3であったとも言われ、自ずと風俗産業が発展する環境が生まれる。そのため、1617年に幕府公認の遊郭として日本橋葺屋町続きに初めて誕生したのが、「吉原遊郭」である。

以後40年に亘り江戸の発展と共に吉原も繫栄したが、都市機能の整備が進むにつれ、当初は江戸の外れに位置していた日本橋周辺にも武家屋敷が建てられたりして、風紀面からも遊郭の移転が検討されていた。その矢先、江戸時代最大最悪の被害を記録した明暦の大火(1657年・明暦3年正月)によって江戸の大半が焼失し、吉原遊郭も浅草寺裏手(現在の台東区千束)に移転を早めることとなる。

さて、前置きが長くなってしまったが、この吉原遊郭の移転がもたらした効果というのが本題で重要なのである。

“新吉原”(移転前の吉原は元吉原と呼ばれる)は、隅田川の氾濫を防ぐために造られた堤防「日本堤」の西側、浅草寺の直ぐ北に位置しており、江戸の市街地からは日本堤の土手の上を経路とし、ただ一カ所の入り口である吉原大門に通じている。新吉原の郭内面積は六丁歩(約1万8000坪)、最盛期には7000人を超える遊女を抱え、24時間営業の不夜城だったらしく、毎日毎夜、相当数の客が日本堤を踏みしめて通ったことだろう。

また、“浅草寺”も当時人気のスポットであったことは言うまでもない。江戸市街地として吸収され、参詣・行楽・歓楽を目的とした人びとが溢れる江戸有数の盛り場として栄えたこの地に、老若男女が引きも切らずに日本堤を往来する姿も目に浮かぶ。 

堤防とは、人家の在る地域に河川や海の水が浸入しないよう、河岸や海岸、運河に沿って土砂を盛り上げた治水構造物である。盛土は、それだけでは大雨や流水にえぐられ浸食し、本来の役目を果たせない。堤防工事には、本体(堤体盛土)の「締固め」が重要で、現代ならブルドーザ、振動ローラ、タイヤローラなどの大型機械や、法面などには振動コンパクタ、ランマ、タンパなどの小型機械を使って施工するが、江戸時代のことであるから、それらは全て人力施工となる。

そこで思い出してほしいのが、昼夜を問わず日本堤の上を往来する多くの人々の存在だ。そう、実は新吉原を浅草寺の北側に持ってきたことで、参詣客のみならず、吉原詣での男衆の足も堤防の締固めに役立っていた事実。 

つまり、土木工学的に言う“自然転圧”の効果を狙ったというのが裏話としてあるそうだ(竹村公太郎氏)。


イメージ/©︎langdu8x・123RF

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【寝屋川北部地下河川をご存じですか?】

今度は西の商都“大阪”に目を移す。

寝屋川地下河川は、寝屋川市讃良東町から大阪市都島区中野町に至る、主に道路の下に建設される総延長14㎞の地下放水路で、寝屋川流域総合治水対策事業の一環として現在も工事が進められている公共施設である。

何故寝屋川市なのか?

寝屋川流域とは、大阪平野の一部で、北を淀川、南を大和川、東を生駒山系、西を上町台地と、周囲を高い土地に囲まれた東部大阪地域を指す総称で、大阪市の東部を含む12市に跨り、その面積は267.6㎢に及び、大小30の河川が流れ込んでいる。ほんの(?)3000年ほど前は、ここもやはり海だった。 

その後、淀川、旧大和川が運ぶ土砂の堆積により、河内潟、河内湖へと変化し、大和川の付け替えで干拓され、現在では平野となっているが、そもそも大阪府下は、上町台地を除いてほとんどが低地で水害が起こりやすく、寝屋川流域は治水事業の重点対策地域となっている。

そもそも、治水対策工事の手法としては、河川改修や下水道の整備(下水道管増補≒管を増やしたり口径を大きなものに取り換える)が基本だそうだが、既に市街地形成が成熟しており、地上の過密化が進んでいる密集市街地などは用地取得や経路確保が難しく、都市計画道路の敷設に併せて地下水路を造ろうにも、道路整備も進まないのが都市の実情だ。

しかし、治水事業は緊急性が高く、年々豪雨による災害の頻度は増してきているから、道路整備に歩調を合わせて、という時間は無いのだ。そこで、大阪府では、この区域における地下水路の計画を見直し、管渠の深度を変更し、用地取得が不要となる大深度地下を採用することにした。大深度地下使用法(2001年4月施行)は、公共的な事業に限定して、通常使用されない大深度地下(地下40m以深または基礎杭支持地盤上面から10m以深のいずれか深い方)を用地買収なしに使用できることを定めた法律で、対象地域は首都圏、近畿圏、中部圏に限定している。2018年に国土交通省の認可を経て翌年から工事を開始。全区間の完成予定は、家康も驚く2044年、総工費3600億円のプロジェクトである。


イメージ/©︎faula・123RF

【誰もが知っておくべきこの国の“宅地”の特性】

先ず、日本の国土のうち、我々不動産業者が業の対象としている“宅地”の殆どが沖積平野に位置し、多くの河川から形成された扇状地の開発によって造成されたという歴史と事実だ。

日々の仕事に追われ、土地本来の性質や地域の地形環境などに見識を深める余裕はない、と言われるかも知れないが、沖積平野における堆積土壌の性質なども、建築物の基礎工事を施工する場合などで重要となることから、小規模であっても、その地域の河川流域の特徴に留意して分譲事業や建築・開発を行っていくことが、我が身を守ることにつながることを意識してほしい。 

特に、2020年改正の水防法に基づく水害ハザードマップの提示と重要事項説明の場面において、取引対象地の近隣河川に限らず、当該地域を広域地図や旧市街図などを参考に、扇状地形の把握と地域の河川の改修工事履歴などを調査するよう業務手順を見直すことや、顧客に対しては、単にハザードマップの面的情報の提示説明に留まらず、それらの調査等によって得た情報と、過去に行われた自然河川の付け替えや干拓、湿地の乾燥などの公共工事によって現在の市街地が形成されていることなどに理解を促すと共に、益々狂暴化する現代の気象現象から、どんな地域でも水害や浸水の恐れが十分にあることの注意喚起を併せた重要事項の説明を行うことが求められよう。

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この記事を書いた人

第一住建株式会社 代表取締役社長/宅地建物取引士(公益財団法人不動産流通推進センター認定宅建マイスター)/公益社団法人不動産保証協会理事

大学卒業後、大手不動産会社勤務。営業として年間売上高230億円のトップセールスを記録。1991年第一住建株式会社を設立し代表取締役に就任。1997年から我が国不動産流通システムの根幹を成す指定流通機構(レインズ)のシステム構築や不動産業の高度情報化に関する事業を担当。また、所属協会の国際交流部門の担当として、全米リアルター協会(NAR)や中華民国不動産商業同業公会全国聯合会をはじめ、各国の不動産関連団体との渉外責任者を歴任。国土交通省不動産総合データベース構築検討委員会委員、神戸市空家等対策計画作成協議会委員、神戸市空家活用中古住宅市場活性化プロジェクトメンバー、神戸市すまいまちづくり公社空家空地専門相談員、宅地建物取引士法定講習認定講師、不動産保証協会法定研修会講師の他、民間企業からの不動産情報関連における講演依頼も多数手がけている。2017年兵庫県知事まちづくり功労表彰、2018年国土交通大臣表彰受賞・2020年秋の黄綬褒章受章。

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