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日本の中世、近世へと続く扉の鍵穴があるロマンあふれる土地

大河ドラマの主役・北条氏のふるさと「伊豆」は面白すぎる場所 日本史の重要な変わり目になぜか登場

朝倉 継道朝倉 継道

2022/02/09

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北条氏ゆかりの地 伊豆の国市の風景

鎌倉北条氏から21年ぶりの「大河」主役

この1月より、新しいNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がスタートしている。二代執権北条義時が主人公とのこと。久しぶりに鎌倉北条氏からの主役登壇となった。前回は「北条時宗」で2001年の放送だった。あれから21年。皆さんは21世紀が始まった年のことをどのくらい憶えておられるだろうか。

【参考記事】北条氏――源頼朝とともに鎌倉幕府をつくり、支えた一族の系譜(家系図)

ところで、鎌倉北条氏の出身が伊豆であることはよく知られている。彼らは伊豆国田方郡北條――いまの伊豆の国市・田方平野の内陸部辺りを地盤としていた土豪で、平安末期に至るまでとても有力とはいえない存在だった。そんな北条氏のひざ元に、ご存知のとおり永暦元年(1160)、源頼朝が流人となって転がり込んでくる。このことを奇貨として、彼らはやがて日本の支配者となる運命を切りひらいた。

その北条氏の居館跡では、現在伊豆の国市によって長期にわたる発掘およびその後の保存整備が進められている。場所は市内西寄りを流れる狩野川の東岸に盛り上がる小山の麓で、このわずかな高みを守山(もりやま)という。標高101.8メートル。北条屋敷の背後を守るささやかな後ろ盾といっていい。ちなみに、この山は元は海底火山からの噴出物だった。陸ではなく海の底に隠れた火山だ。この話は北条氏とは関係ないが、面白いのでこの記事の最後にもう一度触れておきたい。

【参考記事】BOOK Review『北条氏の時代』/北条氏が権力を握り、なぜ維持できたか――「鎌倉時代」を俯瞰する1冊

北条氏・頼朝・伊勢宗瑞――他に例がない歴史の重なり

さて、この北条氏の館に令旨(りょうじ)が届けられた。後白河法皇の子・以仁王(もちひとおう)によるもので、「吾妻鏡」治承4年(1180)4月27日の条にその記述がある。この数年前に頼朝は館の主である北条時政の娘、政子をすでに娶っており、彼はこのとき34歳になっている。流人上がりの中年貴公子は、舅の家で打倒平家の檄文を開いたかたちとなる。

これより時代はにわかに動き出す。同年8月、頼朝は兵を挙げ、伊豆の目代平(山木)兼隆を襲撃し、最初の血祭りに上げる。貴族律令体制を終わらせ、武家政権を樹立するという、日本史上最大といっていい劃期(かっき)に向かってその重要な一歩を踏み出すことになる。

そこで、この北条氏の館の跡――北条氏邸跡(国史跡・96年指定)を地図で見下ろしてみよう。歴史好きな人ならば、きわめて面白い周囲の状況に気がつくはずだ。まずは東へ直線距離にして2kmにも満たない場所に「韮山城跡」がある。これは伊勢宗瑞(そうずい)が明応9年(1500)の頃までに自らの拠点として整備したとされる城の跡だ。

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伊勢宗瑞(盛時)といえば、少し前までは北条早雲の名でよく知られていた。いわゆる最初の戦国大名、戦国大名の嚆矢とされる人物だ。つまり、感動的なことに戦国時代が幕を開けた場所といわれる城の跡は、およそ300年の時を隔て、鎌倉時代が幕を開けた場所のすぐ近くにある。ちなみに、宗瑞以降彼の一族はここから主に東に版図を広げ、広大な“王国”を築いていくが、宗瑞自身はその死に至るまで(永正16年・1519)韮山城を自身の根拠地としている。

それどころか、宗瑞――後北条氏による関東支配のきっかけとなったいわゆる「伊豆討ち入り(明応2年・1493)」の舞台である堀越御所の位置(比定地だがほぼ確実だろう)といえば、さきほどの北条氏邸跡にぴたりと接していて、両者はお向かいさん同士といっていい。

なおかつ、頼朝が最初の挙兵で標的とした前述の平兼隆の館といえば、のちに韮山城となる山の北東脇からすぐのところにあった。そこに伸びてきている別方向からの山裾に、兼隆の館はおそらく構えられている。よって、なんのことはない。これら4箇所はすべてが「ご近所さん」だ(北条氏邸跡・伝堀越御所跡・韮山城跡・平兼隆館跡推定地)。


©︎Google マップ

つまりは、当該3km四方にも満たない中にすっぽりと収まるこの小天地に、日本の中世を開いた扉と、近世に続く扉、両方の扉をひらく鍵穴がぽっかり空いていたことになる。こういった不思議な土地は、京都のようないわゆる“都(みやこ)”を除けば、ほかにはまったく例がない。

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黒船・ハリス・反射炉――近代への足あとが記された下田街道

さて、その韮山城跡の西方、さらには北条氏邸跡の東側、両者に挟まれた平坦地に目を転じてみよう。そこを1本の道が通っている。旧下田街道だ。伊豆半島の南端、港町下田を目指してはるかに南下している。

その下田の町が、今度は幕末日本史の舞台となった。嘉永7年(1854)、下田は日米和親条約に基づき最初の開港地となる。安政3年(1856)にはアメリカ初代駐日総領事タウンゼント・ハリスが、この町に伽藍を構える曹洞宗玉泉寺に入り、ここが最初のアメリカ総領事館となっている。


タウンゼント・ハリス

そこで、下田街道を北上し、もといた辺りに戻ってみよう。北条氏邸跡や韮山城跡のある辺りだ(現伊豆の国市・伊豆箱根鉄道「韮山」「伊豆長岡」両駅周辺)。ただし、時代は北条氏や伊勢氏の頃ではなく、下田が開港して少し経ったくらいの時期としたい。すると、韮山城跡をのせた城山の南端から1kmも行かない辺りで、何やら大規模な工事が始まっているのにわれわれは気付くはずだ。

「韮山反射炉」がここで組み立てられている。伊豆韮山代官江川英龍(坦庵)が、当初下田でこれを手がけ、のち不都合があって現場をこの場所に移転させた。英龍の死後(安政2年・1855)は息子の英敏が工事を引き継いでいる。ほどなく反射炉は完成し(安政4年11月・1857)、その後数年にわたって稼働した。のちに保存され、現在は世界遺産のひとつとなっている。


韮山反射炉/©︎mrpeak・123RF

日本の近代の礎となった重要なプロジェクトのひとつがこの伊豆の地で進行し、見事に成功をおさめたことになるわけだ。なお、反射炉完成の前月にはすぐそばの下田街道を通って、ハリスが将軍謁見のため江戸に向かっている。総勢350名にもおよぶ大名行列並みの陣容が整えられての旅であった旨、ハリス自身が日記に書き記している。

一方、英龍・英敏を出した江川家だが、屋敷がいまも残っている。「重要文化財江川邸」として一般公開されており、幕府旗本家たる地方官の家の様子を知るためのよい資料となっている。場所はさきほどの山木判官・平兼隆の館と韮山城跡の北部に挟まれた付近となる。要はこれらも思いきりご近所さんだ。


江川邸

つまりは、日本の中世を開いた扉と、近世に続く扉、両方の扉をひらく鍵穴がぽっかり空いていた――と、先般この土地のことを記したが、加えてここには日本の近代をひらいた鍵穴のひとつまでが空いていたことになる。開港地となった下田や、源頼朝・北条政子のロマンスの舞台だったとされる熱海(伊豆山神社)も含めて、伊豆は日本史の重大な変わり目にはなぜか必ず登場してくる、実に運命的かつ面白い場所といえるだろう。

伊豆半島は南の海からやってきた

話は変わり、今度はわれわれの足の下にある大地=プレートについて触れたい。日本列島は地球の表面を覆うプレートのうち、主には2つのプレート上にあることが知られている。北米プレート(あるいはオホーツクプレート)と、ユーラシアプレートだ。

ただし、その日本列島本土の真ん中に、これらいずれのプレートにも載らず、独自の位置を占めている特異な場所がある。それが伊豆となる。伊豆半島は、日本列島南方に広がるフィリピン海プレート上にある海底火山群がプレートの北上に伴って隆起し、ついには日本列島にぶつかって半島になった土地であるとされている。

なお、伊豆の半島化は約60万年前のことといわれている。その前後、当地では大型の火山が次々と噴火して噴出物を盛り重ね、これにより現在の伊豆半島の姿がほぼかたちづくられた。

そうしたわけで、冒頭近くにふれた北条氏邸跡がある守山もまた、太古にはその素(もと)となるものは海底に埋まっていたらしい。かつて海底火山が噴出させた岩や砂のかたまりが地上に現れたのち、幾万年にわたって木々や草、木の葉などによる土くれがこれを覆い尽くしたものであろう。

伊豆は、日本人の歴史における奇妙な重なりをその上にのせた面白い土地だが、その成り立ちからしてそもそも面白い場所ということになる。

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この記事を書いた人

コミュニティみらい研究所 代表

小樽商業高校卒。国土交通省(旧運輸省)を経て、株式会社リクルート住宅情報事業部(現SUUMO)へ。在社中より執筆活動を開始。独立後、リクルート住宅総合研究所客員研究員など。2017年まで自ら宅建業も経営。戦前築のアパートの住み込み管理人の息子として育った。「賃貸住宅に暮らす人の幸せを増やすことは、国全体の幸福につながる」と信じている。令和改元を期に、憧れの街だった埼玉県川越市に転居。

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