生活保護はほとんどの人が受けている 間違えたくない文明社会での「人を別ける」線引き
朝倉 継道
2021/09/18
イメージ/©︎thodonal・123RF
「運に左右される貧困」を目にすることが多い賃貸の現場
賃貸住宅の管理や仲介の現場を経験すると、その過程で人々の経済的貧困を目にすることが多い。
そうした境遇に個人が陥ってしまうことについて、理由は千差万別だ。本人の責任だ、政治だ、環境だ、などとても一概にいえるものではない。ただ、私の見た範囲に限ると、やはり心も含む病気や体のケガというものは貧困の要因として割合が大きい。なお、これらはもちろんのこと、本人が好んで招いたものではない。
加えて、そこに重なっての「運」もある。
例えば、一人の人間が予期せぬ経済的窮地に至った際、家族や親族がそれを助けうる状態にあるか否かの微妙な差によって、その後の本人の運命は、まさに天地ほどの開きを見せたりもする。
さて、この夏、たくさんの著書やインターネットでの発信で知られる有名な某「メンタリスト」氏が、ホームレスの人々や、生活保護受給者について、これを激しく罵り命の尊厳までをも否定するかのような発言をしたことで世間から大いに糾弾された。この記事では、そのことに絡んだ話として、ひとつの見方を示してみたい。
われわれはそのほとんどが生活保護を受けている?
まずは、件(くだん)のメンタリスト氏が「(彼らに)払うために(僕は)税金を納めているんじゃない」とした、生活保護受給者についてだ。
結論からいうと、私は、日本の国民はおそらくその大半が、実質として生活保護を受けているのではないかと思っている。なおかつ、国が先進国といわれるほどに内情整うほど、それが社会の基本的構造ともなっていくはずだ。
ただし、ここでいう生活保護とは、生活保護制度上の「生活保護」のみに限らない。それも含んだ「公(おおやけ)の共同体による個人の生活または生存への保護・援助」全体を指している。
つまり、理屈はこうだ。
まず、われわれは、その一生を通じ、国なり自治体なりに、諸々の税金や健康保険料、年金保険料をはじめとするさまざまな納付金をおさめる生活を送っている。その一方で、多様な給付を国や自治体から直接、間接的に受け取っている。さらには、行政サービス等の提供も受けている。要は、上記共同体にお金を納め、その見返りを受ける流れが、まさに誕生の瞬間からその死に至るまで(正しくは遺体処理にも公費が投じられるため死後も少しの間)、切れ目なく続いていくかたちだ。
そのうえで、考えてみたい。
一体、われわれのうちの何人が、こうした給付やサービスに相当する金額以上の納付を一生涯のうちに終えられるだろうか? 言い換えよう。共同体との「生涯収支」を赤字にできるほどの人は、果たしてこの世に何割いるのか? なお、この計算においては、当然、自己負担分を超える医療費の給付や老後の年金のみならず、義務教育において表面上は無料化されている授業料など、共同体からの財貨・サービスの提供ありとあらゆる全てが含まれる。もちろん、司法・警察費用もだ。
すると、どうだろう。
「私が生涯にわたって共同体に納めた金額は、私が生涯にわたって共同体から受けた給付やサービスの金額を上回る。つまり私の生涯収支は赤字だ」
と、いえる人は、ざっと見て数十人にひとり、あるいは数百人に対し1人程度もいないのではないか。となると、われわれはその多くが、程度の違いはありつつも共同体による保護・援助を受けることで、ようやくまともに一生を終えられる存在ということになる。すなわち“被生活保護者”ということだ。
誰が「群れの利益にそぐわない」人間なのか?
一方、上記の意味においての生活保護のみならず、人生の一時期、あるいは多くの時期、心ならずも「制度上の生活保護」を受けざるをえない立場となった人について考えてみよう。この方たちは、件のメンタリスト的視点から見ると、要は社会のお荷物であるかのようにも感じられる。
ところが、その生涯収支(さきほどの定義による生涯収支)を計算すれば、意外にも国民平均よりも黒字幅のせまい人、ひょっとすると赤字の人さえいるかもしれない。すなわち、高額納税していた時期もあり、極貧に沈んだ時期もありの、波乱万丈の人生を歩んでいるような人など、それに当たるだろう。
加えて、ホームレスの人など、なおさらのこととなる。
彼らのなかには、ポリシーとして、公的な保護や援助を受けない人も多い。諸々の給付にも頼ろうとしない人が多い。つまり、共同体への経済的依存度がきわめて低い毎日を過ごしている人が少なくない。
そのうえで、仕事をもつ人にあっては、人にもよるが月2~3万円前後は収入を得ていて、このほぼ全てを食費等の消費にあてている。つまり、立派に消費税を納めている。であれば、現在ホームレスでいる人は、その多くが、月次、年次といった足元の決算においては、共同体との収支が赤字のはずだ。そのうえで、彼らの“生涯収支”を計算すれば、さきほどの制度上の生活保護受給者同様、対共同体における収支貢献度が国民平均を上回る人がぞろぞろと出てくる可能性も高いだろう。
よって、こうした観点からすると、件のメンタリスト氏は、どうも今回とんちんかんなところに線を引いている。
彼は、“目下”ホームレスである人、および、“目下”制度上の生活保護受給者である人を一時の属性に基づき短絡的に囲ったうえで、彼らを「(人間の)群れ全体の利益にそぐわない人間」と、規定している(発言の脈絡上明らかにそう理解できる)。
しかしながら、その認識は感情的かつあまりに雑すぎる。なぜなら、利益にそぐわないのは、述べたとおり彼らだけではないのだ。しかも、彼らのなかにおいても、利益に「そぐう」人が、実はちゃんと存在している可能性がある。そのため、メンタリスト氏が、それでも「群れ全体の利益にそぐわない人間」を国民の中から切り分け、文句をつけたいのであれば、線引きは上記の生涯収支が赤字か? 黒字か? で行うしかない。
ほかでやろうとしても、それは霜降り肉の脂と赤身を分ける線を探すようなもので、要は切り口など見定めようにも見定められないということになるわけだ。
メンタリスト氏の本を買う人々の属性
以上、この夏話題となったひとつの「事件」について、見解を並べてみた。
不動産まわりの世界に身を置いていると、いわゆる富の分配に関するさまざまな考え方について、日常敏感になってくる。そのうえで、今回の件に関していえば、世の中挙げての異論・反論はエネルギッシュで、かつ方向性も正しい気がするが、どうもその前が危なっかしい。
そもそもの発信元における現実への認識自体が、酔っ払いの寝言のごとく、雑で、かついい加減なものでありすぎるのではないかというのが私の見方だ。
ちなみに、さきほど示したような「黒字・赤字」の線引きで、一応国民を別けられるとして、メンタリスト氏は、意見を公表するかはともかく、その後あらためて「黒字」側の人を責めることになるのかもしれない。
漏れ聞くところ、彼はうらやましくも堂々たる「赤字」側の人なので、その資格があるといえばあるからだ。
しかしながら、若干皮肉をいえば、おそらく彼の書いた本をこれまでに買ってくれた(私のような)人、いま買ってくれている人のほとんどは「黒字」側の人間のはずだ。
なぜならば、メンタリスト氏の書くようなテーマの活字本が売れるような、豊かで知的水準が一定以上に高いマーケットは、理由は省くが、上記のような黒字過多のバランスにある社会においてこそ、形成されるはずだからだ。
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この記事を書いた人
コミュニティみらい研究所 代表
小樽商業高校卒。国土交通省(旧運輸省)を経て、株式会社リクルート住宅情報事業部(現SUUMO)へ。在社中より執筆活動を開始。独立後、リクルート住宅総合研究所客員研究員など。2017年まで自ら宅建業も経営。戦前築のアパートの住み込み管理人の息子として育った。「賃貸住宅に暮らす人の幸せを増やすことは、国全体の幸福につながる」と信じている。令和改元を期に、憧れの街だった埼玉県川越市に転居。