「禅」から世界の「ZEN」へ――現代人にも大いに役立つ 釈宗演が残した「修養座右の銘」
正木 晃
2021/08/16
イメージ/©︎studiograndouest・123RF
禅=ZENになったのは明治から
いまや「禅」は世界中に広まっている。どのように「禅」は世界で広まっていったのか。
白隠慧鶴から300年後、円覚寺の釈宗演(しゃくそうえん/1860-1919)が世に現れた。
宗演は臨済禅の伝統において、300年に1人、つまり白隠慧鶴以来の傑物とも称される大禅僧であり、もしこの人が出なかったならば、近現代の日本仏教の様相はかなり貧しいものに終わっただろうとさえいわれる。
宗演について特筆すべきは、明治20年から2年間、スリランカ(セイロン)に留学したことである。そして明治22年12月に円覚寺に帰着し、明治25年1月にはその管長に就任した。時に若干34歳、この若さで師家(しけ)として禅の指導者となるというのは、いくら明治が激動期とはいえ、珍事であった。
翌年8月には渡米し、シカゴの万国宗教大会において、仏教の代表として講演している。このとき、鈴木貞太郎(のちの大拙)に英訳させた仏教小史を紹介したが、これが機縁となって、ドイツ系米国人哲学者のポール・ケーラスのもとに鈴木大拙が留学し、欧米に禅=ZENが広まる契機となった。現在、日本といえば禅といわれるほど、禅は世界に普及しているが、その源泉は釈宗演にあったといっていい。
明治の大文豪、夏目漱石の参禅の師としても知られ、名作『草枕』をはじめ、『初秋の一日』などにも、宗演の話が出てくる。ただし、漱石の参禅は、散々な結果に終わっている。
坐禅でノイローゼをなんとか癒やせないかと考えて、円覚寺を訪れたのに、かえって悪化してしまったようだ。原因の一端は、円覚寺の都合を調べずに、いちばんの繁忙期に訪れてしまうなど、かなり身勝手な行動にあったという指摘もある。いくら師が偉くても、参禅する者のレベルが低ければ、指導のしようがないという話である。
いずれにせよ、釈宗演がこれほどの大禅僧となり得たゆえんは、若いときのスリランカ留学にあったことは疑いない。
宗演自身は、このスリランカ行を「聖胎長養(しょうたいちょうよう)」、すなわち厳しい修行の末にようやく宿った悟りの種を育み成長させ、真の仏教者となるための必須の道程と位置づけた。もっとも、宗演にとって最大のパトロンであった山岡鐵舟にいわせれば「(小賢しい知恵を捨てて)馬鹿になる修行」だそうで、帰国後の宗演の活躍を見れば、彼はスリランカで立派に馬鹿になってきたらしい。
釈宗演といえば、大禅僧中の大禅僧だから、そのひととなりも重厚かつ謹厳、非の打ち所のない人物と思われがちである。しかし、重厚謹厳(じゅうこうきんげん)であることは事実としても、まだ日本にいた頃は大酒飲みで、二日酔いはしょっちゅう、スリランカに行ってもプレッシャーに案外弱く、大きな行事があるとそのあとは必ずといっていいほど寝込んでいる。
それがスリランカで3年を過ごしてからは、文字通り一変するのだから、彼にとってこの留学がいかに意義深かったかがわかる。
釈宗演はどうのように悟りを得たのか
釈宗演/Public domain, via Wikimedia Commons
釈宗演にとって、最も深く、決定的だった体験は、スリランカからの帰国の途次、便船がタイ国の首都バンコクを貫流するメナム河(現在の名称・チャオプラヤー川)の船上において、得られたという。
以下に、宗演自身が『楞迦窟洪嶽演禅師示衆』(りょうがくつこうがくえんぜんじじしゅ)と題して、書き残している文章から要所をご紹介する(原文は漢文体で、難解なため、私の現代語訳を付す)。
【原文】
夜愈々深くして、人既に定まり、満船閴として、只舷灯の僅かに河底を射るあるのみ。此時蚊軍更に一層の魔力を振い……。今此の一臠の頑肉を以て、此の蚊軍の犠牲となし、飽くまで彼等の口腹を満たしむることを得ば、衲が意亦た足りなん。
是の如く観じ来って、中夜陰に甲板上に於いて、総に衣帯を脱し裸体赤條々にして、兀然として危坐して海印三昧に入る。始は蚊軍の喊声、耳辺に喧しきを覚え、中ごろ蚊軍と自己と相和して、溽熱飢渇亦た身に 在ることを省せず。終に五更に至って、寤寐髣髴、胸中豁然として羽化して、太虚空界に翺翔するが如く、爽絶快絶、殆んど名状す可からず。那時一刹那、迅雷霹靂、電光一閃、驟雨沛然として至り、滂沱たる点滴頭より背に瀉いて、恰も瀑布をなす。時に徐ろに眼を開いて身辺を顧視すれば、時ならざるに真紅の茱萸茱萸粒々相重りて面前に落在す。知る、是れ夜来蚊軍の血に飽きて、自ら死地に陥りたるものなるを。
【現代語訳】
夜がふけてゆき、乗船している人たちも寝静まり、船中ひっそりと静まりかえり、舷側にともされた灯りが川底を照らしていた。このとき、蚊の大群が襲ってきて……。私は自分の身体を蚊に喰われるにまかせ、蚊が私の血を吸って満腹するのであれば、それもまた良いと思った。
そう思って、午前零時ころ、甲板の上で、着ていたものをすべて脱ぎ捨て、素っ裸になって深い瞑想に入った。はじめのうちは、蚊の唸る音が耳もとにうるさかったが、そのうちに蚊と私が溶け合ってしまい、熱いとか腹が空いたとか喉が渇いたとかいう感覚がなくなってしまった。そして夜明け前にいたり、寝ているのか覚めているのか分からなくなり、身体が羽のようになって、虚空に飛翔するかのようで、その快さは言葉にならなかった。
そのときのことである。雷鳴が轟きわたり、稲妻が走った。猛烈な雨が降りそそぎ、頭から背中から、まるで瀧の水を浴びているかのようだった。しばらくして目を開けて、周囲を見わたすと、季節はずれの真っ赤なグミの実が私の前にたくさん落ちていた。よく見ると、それは私を襲った蚊の群で、血を吸いすぎたせいか、死んでしまったようだった。
どうやら、禅の悟り体験はこういうかたちで成就することもあるらしい。
釈宗演が残した「修養座右の銘」
釈宗演は、「修養座右の銘」として、以下の九箇条を残している。元来は弟子となった禅僧のためだが、私たちにも十二分に役立つ。「 」の原文につづいて私が現代語訳したものを記す。
1)「早く起き未だ衣を改めず、静坐一炷香」
早起きして、40~45分くらい線香の香に包まれて背筋を伸ばし、肩の力を抜いて正座しながら、静かな時間を過ごそう。
2)「既に衣帯を著くるば必ず神仏を礼す」
着替えたら、神仏に手を合わせよう。
3)「眠は時を違えず、食は飽くに至らず」
就寝時間は規則正しく、食事は食べ過ぎないようにしよう。
4)「客に接するは独り処るが如くし、独り処るは客に接するが如くす」
人前では独りでいるときのように、ありのままの自分を出し、独りのときは、人前にいるかのように、慎みを忘れずに過ごそう。
5)「尋常苟くも言わず、言えば則ち必ず行う」
禅は必要ないものを捨て去ることが修行だから、余計なことは口にせず、言ったことは必ず実行しよう。
6)「機に臨みて譲ること莫かれ、事に当りて再思ず」
「機」とは仏の教えに従って活動する心を意味する。その心を譲ることなく、なにごともよく考えて行動しよう。
7)「妄りに過去を想うこと莫かれ、遠く将来を慮れ」
過去にとらわれず、これからどうするかを考えよう。
8)「丈夫の気を負い、小児の心を抱け」
立派な大人の気概をもちつつ、同時に子どものような純真無垢な心も忘れないようにしよう。
9)「寝に就くは棺を蓋うが如くし、蓐を離るるは履を脱ぐが如くす」
寝るときは、お棺に入るときのように静かに寝よう。起きるときは、靴を脱ぐときのようにさっと起きよう。
食事での修行法「赴粥飯法」とは?
イメージ/©︎cokemomo・123RF
「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」とは禅宗の食事の作法である。曹洞宗の開祖、道元禅師が作成したものがことに有名だ。たしかに、ちゃんと修行を積んできた曹洞宗の僧侶が、食事をしている姿はまことに美しく、しかも理にかなっている。
食事の仕方は、その人の生まれ育ちを如実にあらわすという。高級な服を身にまとって、せっかく格好を付けていても、食事の際に、正体がばれてしまうこともよくある。
以下に述べる作法を守れば、誰からも尊敬のまなざしで見られること、間違いない。
1)話は一切しない
2)周囲をきょろきょろ見ない
3)背筋を伸ばし、坐禅を組んでいただく
4)食器の音を立てない
5)食器は必ず両手でもつ
6)隣の人のうつわをのぞき込まない
7)食べるときに音を立てない
8)ずるずるとすすって食べない
9)口いっぱいに食べ物をほおばらない
10)食べ物を残さない
11)もっと欲しそうな態度をとらない
12)食べ終わったあと、舌で口のまわりをなめまわさない
13)皆と食べる早さを合わせる
ちなみに、唯一の例外は、うどんを食べるときである。盛大にすすって、音を立てても叱られない。
この著者のほかの記事
ビジネスパーソンは要注意 瞑想、マインドフルネスによって陥る「禅病」の危険性
古代から中世の感染症対策は「寺院建立」か「まじない」か
インドでの新型コロナ感染爆発とヒンドゥー教の関係
この記事を書いた人
宗教学者
1953年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。専門は宗教学(日本・チベット密教)。特に修行における心身変容や図像表現を研究。主著に『お坊さんのための「仏教入門」』『あなたの知らない「仏教」入門』『現代日本語訳 法華経』『現代日本語訳 日蓮の立正安国論』『再興! 日本仏教』『カラーリング・マンダラ』『現代日本語訳空海の秘蔵宝鑰』(いずれも春秋社)、『密教』(講談社)、『マンダラとは何か』(NHK出版)など多数。