越前松平家――子孫は幸村の首級を挙げ、幕末・維新は政治の中枢、昭和天皇の側近…歴史の転換期のキーマン
菊地浩之
2021/07/04
「制外の家」として別格扱いで紆余曲折を乗り切る
NHK大河ドラマ『青天を衝け』に登場する松平慶永(演:要潤)は、越前福井藩32万石の藩主であり、彼の家系は越前松平家と呼ばれる。
その先祖は徳川家康の次男・結城秀康(1574~1607)である。
秀康は出生時から父・家康に疎まれていた。秀康は魚のギギのような顔だから於義丸(おぎまる)と名付けられ、永らく認知されず、家臣・本多重次のもとで育てられた。
小牧・長久手の合戦で家康が羽柴(のちの豊臣)秀吉と和睦すると、於義丸は人質として秀吉のもとにおくられ、猶子(ゆうし/相続権のない養子)となった。ところが、秀吉に実子・鶴松が誕生すると、秀康は17歳の若さで、鎌倉以来の名門・結城晴朝の婿養子に出されてしまう。
結城秀康/Public domain, via Wikimedia Commons
関ヶ原の合戦で、秀康は宇都宮に残って上杉ら奥州の諸大名に対する抑え役を担い、越前北ノ庄(福井県福井市)68万石の大大名に取り立てられた。
二代将軍・秀忠は、実兄・秀康に対する配慮を忘れず、諸大名の中でも別格として扱ったため、越前松平家は「制外の家」(=幕藩制度の外にある特別な家系)と呼ばれた。
秀康の死後、嫡男・松平忠直(1595~1650)が家督を継ぎ、秀忠の三女・勝姫を正室に迎えた。忠直は父譲りの勇猛果敢な性格で、大坂夏の陣では1万5000の軍勢を率いて奮戦し、大坂城へ一番乗り、真田幸村の首級を挙げるなど大活躍した。ところが、勲功に対する恩賞は参議叙任だけであり、不満を持った忠直は次第に奇行に走り始め(忠直の乱行は菊池寛の小説『忠直卿行状記』にも取り上げられている)、豊後(大分県)に配流されてしまう。
通常、改易された藩では嗣子の相続が認められないが、越前松平家は「制外の家」と呼ばれるほどの名門であり、忠直の嫡子・仙千代(のちの松平光長)は秀忠の外孫にもあたるので、相続を許された。
しかし、家光が三代将軍に就任すると、要害の地・越前にわずか9歳の仙千代を置くことを嫌い、秀康の次男・松平忠昌(1597~1645)を越前北ノ庄に配し、仙千代を忠昌の旧領・越後高田25万石に転封することにした。
忠昌の子・松平光通は英明の誉れ高く、藩政改革に成果を上げていたが、側室の子を継嗣にするかで大騒動となり、正室が自殺。光通も自ら命を絶ってしまった。
光通の遺書により、末弟・松平昌親(まさちか)が藩主の座に就いた。昌親には兄がいたのだが、光通と不仲ゆえ除外されてしまったのだ。そこで昌親は兄の子・松平綱昌(つなまさ)を養子に迎えて藩主の座を譲った。しかし、後見人として政務を続け、実権を譲ろうとしなかったので、両者は次第に不和に陥り、昌親は綱昌を「乱心者」として幕府に訴え、藩主の座から引きずり下ろそうとした。
ところが、相手が悪かった。
時の将軍・徳川綱吉は大名統制を強めており、越後福井藩を改易してしまったのだ。
綱吉は昌親に新たに25万石を与え、偏諱を与えて松平吉品(よしのり)と改名させた。つまり、昌親の主張通り、綱昌が藩主の座から退けられ、昌親が藩主に復帰したのだが、領地が半分以下に減らされてしまった。そのため、この一件は当時の元号を取って「貞享の半知(じょうきょうのはんち)」と呼ばれている。
松平吉品(昌親)の後、甥の二人が藩主になったが、子がないまま急死。親族の中から松平宗矩(むねのり)が養子に迎えられた。宗矩は「貞享の半知」で失墜した越前松平家の家格再興するため、将軍家から養子を迎えて挽回しようと画策。将軍・徳川吉宗に子(もしくは孫)を養子にもらえないかと懇願した。
吉宗の孫・松平重昌(しげまさ)、松平重富(しげとみ)が家督を継ぎ、越前松平家は家格・家禄を引き上げることに成功した。重富の孫・松平斉承(なりつぐ)には子がなく、将軍・徳川家斉の24男・松平斉善(なりさわ)、さらに斉善の従兄弟・松平慶永を養子とした。
歴史のキーマンとなった松平春嶽とその子孫たち
松平慶永(1828~1890)は御三卿・田安徳川家に生まれ、越前松平家の養子となった。
慶永は名君の誉れ高く、島津斉彬、伊達宗城、山内容堂とともに幕末の「四賢侯」と呼ばれた。13代将軍・徳川家定(演:渡辺大知)が病弱で、嗣子に恵まれないと、「将軍継嗣問題」が起き、慶永は親しい大名等と一橋徳川慶喜(演:草なぎ剛)の擁立に奔走。
この政争に敗れると、大老・井伊直弼(演:岸谷五朗)による反対派を粛清「安政の大獄」で、慶永も隠居を命じられ、春嶽(しゅんがく)と号した。なお、幕命により越前松平家は、支藩の越後糸魚川藩主・松平茂昭(もちあき。1836~1890)が継いだ。
桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、春嶽は復権。薩摩藩の島津久光が藩兵を率いて江戸幕府に幕政改革を迫った一環で、新設の政事総裁職に就任した。明治維新後には新政府の議定職に任ぜられ、内国事務総督、内国事務局卿、民部官知事、民部卿、大蔵卿を歴任した。
春嶽の子・松平慶民(よしたみ)は越前松平家の分家として子爵に列し、宮内省に入省。侍従、式部長官、宮内大臣らを歴任。戦後の家族制度廃止、宮内省解体に立ち会い、昭和天皇の戦後巡幸に付き従っている。その子・松平永芳(ながよし)は海軍少佐、陸軍自衛官、福井市立郷土歴史博物館館長を経て、靖国神社宮司に就任。A級戦犯合祀を実施した宮司として有名である。
一方、越前松平家の本流・松平茂昭は侯爵に列した。子の松平康荘(やすたか)は春嶽の五女・節子(ときこ)と結婚。その子・松平康昌(やすまさ)は昭和天皇の側近として仕えた。
終戦後はGHQ関係者や米国記者を自邸に招いて裏面工作を続け、マッカーサー元帥の意思を汲んだキーナン主席検察官らと連繋し、東京裁判で天皇の戦争責任を回避することに成功した。
康昌の子・松平康愛(やすよし)は第二次世界大戦で海軍通信隊に召集され、海軍少佐としてフィリピンに赴任、戦死した。一人娘の智子は、田安徳川家から松平宗紀(むねとし)を婿養子に迎えた。宗紀は福井市立郷土歴史博物館名誉館長、東京福井県人会会長などを務めている。
【関連記事】『青天を衝け』登場人物の家系
渋沢栄一(演:吉沢亮)
渋沢家――さまざまな分野に広がる子孫、財産より人脈を残した家系
一橋(ひとつばし)徳川慶喜(演:草なぎ剛)
一橋徳川家――御三家、御三卿の中で目立つ存在になった理由
この記事を書いた人
1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。