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まちと住まいの空間 第33回 ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり④――第一次世界大戦と『東京見物』の映像変化

岡本哲志岡本哲志

2021/02/19

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極東の島国からグローバル化する日本へ

『大正六年 東京見物』の最後、4回目は原型の映像に付加された新たな映像にフォーカスする。

『大正六年 東京見物』ドキュメンタリー映画なのだが、新しく映像が追加されたことで、映画全体の構成は大きくバランスを崩した。ただし、新しいシーンの導入は、大正という時代の東京を描くうえで強烈なインパクトがあったことも意味している。

この『大正六年 東京見物』が企画・製作に入ったころは、第一次世界大戦(1914〜18年)の最中だった。この世界大戦では、フランス、イギリス、アメリカなどの連合国側に日本が加わる。欧米からの輸入品に頼る中国、あるいは東南アジア諸国は、戦争で途絶えた欧米からの輸入品を日本に依存した。

その結果、大戦がはじまった翌年、大正4(1915)年の日本は明治維新以来はじめて貿易収支が黒字となり、大正7(1918)年までの4年間黒字を維持する。日本の産業構造を大きく変える未曾有の好景気が続いた。経済的、軍事的に、欧米と肩を並べるチャンスが到来したわけだ。このことが全国を巡回する記録映画の『大正六年 東京見物』にも強く影響したと考えられる。

明治天皇を象徴とする孤島の日本から、グローバル化する日本へ。首都である東京も新しい時代の風景を映像で描き出す必要があった。

『大正六年 東京見物』では、全体放映時間(26分)のうち、10分程度である原型の映像を優に越える長さのフィルムが新たに追加される。それらは満遍なくではない。政治・軍事の舞台である「霞が関」、グローバル経済の発信地である「丸の内」、欧米的な都市文化や娯楽を象徴する「日比谷公園」と「上野公園」が中心であった。この変化した映画は、明治という時代の強烈な残り香を骨子としながらも、パワフルに時代を切り開く激動の大正期のコンプレックスを表現したように目に映る。

文字だけのフリップとフリップなしで登場する追加シーンの違い

新しい時代に向け、具体的に何を映像化したのか。文字だけのフリップとフリップなしで登場する映像の追加シーンには、大正という時代を読み解く鍵がある。

文字だけのフリップは7枚。「日曜日の日比谷公園」(3番目)、「司法省 大審院 東京控訴院 東京地方裁判所」(4番目)、「海軍省」(5番目)、「川村大将銅像」(6番目)、「三宅坂 寺内元帥銅像」(7番目)、「赤坂見付 弁慶橋」(8番目)、しばらく間を置いて「芝公園」(14番目)となる。


図/映画に登場する主な施設

フリップのない映像(※この場面はこちらで仮名称を付けた)も挿入された。それらを列記すると「日本郵船ビルと丸ビル」「東京海上ビル」(1番目と2番目の間)にはじまり、「三菱第二号館、東京商業会議所、東京會舘、帝国劇場」「東京府廳舎・東京市役所」「高架鉄道と交差する馬場先通り」(2番目と3番目の間)、「外務省」「帝国議会(旧・国会議事堂)、貴族院、衆議院」「霞が関の街並み」「参謀本部と有栖川宮銅像」(6番目と7番目の間)、「泉岳寺」(14番目と15番目の間)となる。

「上野公園」は絵模様で飾られた19番目のフリップだが、はじめからすべてが原型の映像ではない。前回でも書いたように、8つのシーンの多くは新たに挿入された映像と考えられる。そのうち、特に「数々の動物たち」のシーンが長時間流れる。

最後は「隅田川河口の東京湾」(21番目の後)で終わる。このシーンは強い西日が射し、画像が見えづらい。船が映されている。商船大(現・東京海洋大学)の明治丸、あるいは大成丸だろうか。このシーンは何かを語りかけようとしているが、これだけのラストシーンでは唐突に画像を貼り付けた感が強い。

東京駅の次、最先端の近代風景として登場する丸の内

東京駅(1番目)の後には、短くだが、同一画面に日本郵船ビルと丸ビル、東京駅・行幸道路(現・行幸通り)と同じ画面におさまる東京海上ビルが映し出される。東京駅(大正3)年の完成は、丸の内の重心を凱旋道路(現・馬場先通り)から行幸道路に変化させる引き金となった。

三菱第二十一号館(大正3年)から三菱地所の設計に携わり、丸ビルの設計責任者であった櫻井小太郎(1870〜1953年)は、丸の内の変貌ぶりを身近に体験し、そのスピードの早さに驚く。

東京駅の完成から10年も満たずに、帝都の表玄関の都市風景が「一丁紐育(いっちょうニューヨーク)」と呼ばれ、その名が定着した。


絵葉書/一丁紐育(ニューヨーク)と呼ばれた街並み

『大正六年 東京見物』の製作年は大正6年としているから、関東大震災前の大正12年に竣工した日本郵船ビルと丸ビルはまだ着工すらしていない。東京駅が完成した年に着工し、大正7年竣工する東京海上ビルは開業前。存在もしていない建築群の光景が東京駅に続くシーンとして登場する。明らかに後で撮られ、新たに加えたものだが、東京海上ビルだけが、まずはじめに挿入された。同時に挿入されたのであれば、絵葉書のように、街並みとして映した方がアメリカ式建築の偉容をよりアピールできたはずだ。

巡回用の教育映画であれば、年月をかけて日本全国で上映される。東京駅を撮影した数年後に、東京駅を取り巻く光景が全く違う都市の環境に変化した。

現在の東京は超高層ビル群によって都市風景を瞬く間に変貌させる時代である。都庁も、六本木ヒルズも、東京ミッドタウン六本木も、ましてやスカイツリーや虎ノ門ヒルズもない超高層化する現代東京を語るにはいささか拍子抜けする。一世紀前の東京を描く時も、そのような感覚が強く働いたのだろう。それほど、東京駅完成後の東京海上ビル、日本郵船ビル、丸ビルの出現は、強い驚きをもってむかえられたといえる。

お濠端と馬場先通りに建ち並ぶ世界の建築様式

「宮城及楠公銅像」(2番目)の後は、フリップが無い。皇居外苑側からお濠端沿いの丸の内に西欧風建築の建ち並ぶ近代都市風景が映される。

画像は北から南に移動し、北からジョサイア・コンドル設計の三菱第二号館(明治28年竣工、イギリスの様式)、凱旋道路(現・馬場先通り)を挟み、妻木頼黄設計の東京商業会議所(明治32年竣工、ドイツの様式、現・東京商工会議所)、田辺淳吉設計の東京會舘(大正11年竣工、フランスの様式)、横河民輔設計の帝国劇場(明治44年竣工、イタリアの様式)と続く。とても日本とは思えない。

しかも、世界でも類例のないさまざまな様式建築群のパノラマ映像が展開する。東京會舘は大正11年の竣工であり、この画像は大正6年の撮影ではない。


絵葉書/お濠端側から見た東京會舘

第一次世界大戦の好景気を反映し、『大正六年 東京見物』は東京會舘を加えた豪華な街並みを新たに組み入れた。凱旋道路沿いに建つ三菱第二号館と東京商業会議所は脇役に過ぎず、あくまでも東京會舘がメインであると印象づける。

明治の終わりころ、凱旋道路沿いの両側が西欧風街並みとして完成したばかり。大正中ごろまでの絵葉書は道沿いの街並みを頻繁に取り上げていた。だが、『大正六年 東京見物』ではその街並みを映すことなく、東京府廳舎(東京市役所併設)と鉄道高架の陸橋に画面が飛ぶ。東京の巨大都市化を支える行政施設をシンボリックに見せたかったのだろう。

大正9年時点、東京市(旧15区)は人口200万人(2,173,201人)、旧35区(現・23区)まで範囲を広げると300万人(3,358,186人)を突破していた。江戸のエリアを越えて、巨大都市化する東京の行政拠点である建物をアピールする。


絵葉書/東京府廳舎(東京市役所併設)

軍と省庁の意地の張り合いが読み取れる霞が関と銅像の映像

次に、丸の内から霞が関へとシーンが移る。その最初が3番目のフリップ「日曜日の日比谷公園」である。

当時日比谷公園内の注目施設といえば、池に設けられた鶴の噴水。


絵葉書/日比谷公園内、鶴の噴水

名所絵葉書にも頻繁に登場する。鶴の噴水は明治38(1905)年に製作され、長崎の諏訪神社境内、大阪の箕面公園内に次いで3番目の古さを誇る。鶴の口から吹き上げるダイナミックな水の造形とともに、四季折々に表情を変える池周辺の光景とが絶妙にマッチし、人気のスポットであり続けた。

その後、新たに政治・軍事の中枢である霞が関の建物が原型の映像に加わる。その中心に文字のフリップで紹介された明治27年竣工の「海軍省」(5番目)と明治28年竣工の「司法省(現・法務省)」(4番目)。現在の桜田通り東側は、外桜田御門(桜田門)から、司法省、大審院、海軍省と、威風堂々とした煉瓦建築が並ぶ官庁街の中心であった。


絵葉書/煉瓦の官庁建築が並ぶ街並み

いずれの施設も文字だけのフリップである。「司法省 大審院 東京控訴院 東京地方裁判所」(4番目)は「司法省」の文字だけが大きく強調された。「海軍省」(5番目)はサブの説明文がある。「太平洋の河岸を通信し得られる・東洋第一の無線電信柱」と。「無線塔」ではなく「無線電信柱」と記してある。現在の習志野に、東洋一の無線塔が大正4(1915)年に完成していた。東洋一の無線塔との関係で描きたかったのか、映像は「無線電信柱」と呼ばれる鉄塔が必要以上に映され続ける。


写真/海軍省と鉄塔、『日本地理大系 大東京篇』(改造社、昭和5年)より

こうしてフリップの有無と登場する映像を観ていくと、まず文字のあるフリップの映像が最初に挿入されたと考えられる。そうなると、その映像を観た他の省庁からのクレームは必至だったのではないか。

そして9番目の「東宮御所」までの映像には、帳尻を合わせ、省庁間のバランスを取るように各省庁の映像が新たに加えられ、その結果、『大正六年 東京見物』全体の流れを見えにくいものにした。

ここに来て、銅像もオンパレード。海軍省の前には仁礼景範中将(1831〜1900)、西郷従道元帥(1842〜1902)、川村純義大将(1836〜1904)の銅像が並ぶ。これに対し、陸軍からは6番目の「川村大将銅像」(川村景明、1850〜1926)と7番目の「三宅坂 寺内元帥銅像」(寺内正毅、1852〜1919)が追加された。原型の映像をイメージしながら観ると、かなり唐突な挿入に感じられる。海軍軍人の銅像ばかりで、陸軍軍人がいないと、陸軍省からのクレームがあったのだろうか。

さらに、外務省、貴族院、衆議院、参謀本部の建物など霞が関官庁街の施設が次々と加わる。フリップの文字はない。大正期の絵葉書では、参謀本部と有栖川宮銅像がセットになり、欠かせない風景の一つとなっていた。


絵葉書/参謀本部と有栖川宮銅像

海軍省、司法省に比べ、フリップがないが、じっくりと撮影されている。明治維新の功労者有栖川宮を出すことで、省庁間の力関係でだらだらと延びる官庁街のフィルムに楔(くさび)を入れ、一件落着を図ったとも考えられる。

珍しい動物に向けられた当時の子供たちの眼差し

「上野公園」では2つの異なる時代の施設がフリップなしで新たに挿入されている。

一つは、江戸時代の「上野東照宮」と「五重塔」。比叡山延暦寺を凌ぐ天台宗筆頭となる江戸時代の寛永寺は、上野戦争を経て多くの建物が焼失し、寛永寺自体も上野の山の片隅に追いやられた。「上野東照宮」と「五重塔」は江戸時代から残る建物として映像化される。後付けで挿入されたこれらのシーンには、明らかに仕込まれた登場人物が映る。「日比谷公園」「靖国神社」の場面にも出てきた。関東大震災以降、案内役を映画のストーリーに加える先駆けといえるが、まだ映像に馴染まず、ぎこちなさがある。

いま一つとして「上野動物園」が新たな施設として加わる。『大正六年 東京見物』での順路は、上野東照宮、五重塔を見た後上野動物園に向かう流れとなる。実際に上野公園を訪れた時、同様のルートで歩け、違和感がない。ただし、全体配分のバランスを大いに欠くほど、動物たちが長い時間映る。

上野動物園の開園は明治15年と古く、明治40(1907)年には入場者が100万人を超えた。全国を巡回する映画は、視聴者として子供たちの存在が視野にあった。個人的には、動物の映像が長すぎて大いに閉口したが、子供たちを引きつける意図があれば、それもいた仕方ない。子供たちは新たに加わる動物たちの登場に固唾をのんで観ていたのだろう。上野公園で特に長い「数々の動物たち」のシーンは、上野動物園に珍しい動物が新しく来園した時に映像化され、地方を巡回するなかでフィルムが長くなったと考えられる。

【シリーズ】ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり
①地方にとっての東京新名所
②『大正六年 東京見物』無声映画だからこその面白さ
銀座、日本橋、神田……映し出される賑わい
⑤外国人が撮影した関東大震災の東京風景(『関東大震災』より)

【シリーズ】「ブラタモリ的」東京街歩き

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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