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田舎の集落は小さいほど居心地がいい!?

田舎暮らしの人間関係、温かくて心地いい? それともめんどくさい?

馬場未織馬場未織

2017/05/18

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田舎の近所づきあいはめんどくさい?


(c) ほじん – Fotolia

いろいろな場面で知り合う地方出身の方の半数以上は、週末田舎暮らしをしているわたしに「近所づきあいとかめんどくさくない? やることも決まりも多いし。自分は東京のほうが楽でいいわ」といいます。あなたは田舎のこわさを知らないね、という風に。

でも、わたし自身は、おかげさまでイヤな思いをすることなく、南房総の小さな集落で暮らし続けています。「めんどくさくない?」と言われている近所づきあいを負担に感じたことがそんなにありません。

やっぱりアレですかね、田舎のこわさを知らないからですかね! 笑。

つながりに苦しむ人、つながりに飢える人

つながるって、むずかしいですよね。

つながりに苦しんでいる人、つながりに飢えている人、いろいろいます。

そしていまは、田舎のつながりどころの騒ぎではない、毎日・毎時間・毎秒、SNSで人とつながれてしまう環境ができています。つながる相手は、友人だったり、仕事だったり、情報だったり。

起きている間中、肌身離さずスマホを持ち歩くのは、すなわち「つながり」の手綱を常に握りしめているようなものかもしれません。

ただ、田舎におけるリアルな「つながり」は、スマホの電源を切るようにぱっと生活から切り離すことができないものです。

そこで今回は、良くも悪くも話題にのぼる「田舎×つながり」について考えてみます。

田舎暮らしの人間関係を整理してみると?

ぬくもりのあるつながりを求めて田舎に行く人もいれば、むしろ、日常の複雑なつながりに疲れて「自然豊かな=人口密度の疎(まばら)な」田舎に引っ込む、という人もいます。

いやはや。これは単に、受け止める側の感性によって田舎暮らしの人間関係のとらえ方が違う、ということなんでしょうか?

それとも、「あんなものはいや」と言っている人と「あれが好き」と言っている人とでは、見ている風景が違うのでしょうか?

ひとくちで「つながり」と言ってもいろいろありそうなので、疎(うと)まれがちな“ネガティブなつながり”と、望まれがちな“ポジティブなつながり”を分けて整理してみますね。

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田舎暮らしの人間関係【1】 「ポジティブ」なつながり

(1)近隣で困っている人がいたら助け合う

行政に頼ったり、外注で解決するのではなく、近隣が力を貸してくれるという関係の強さ。わたしは脱輪したとき、助けを求める前(ほんの5分後)にもう近所の方が来て助けてくれたことさえある。「お互いさま」の精神。

(2)顔を合わせる機会が多い

メールやSNSでのやりとりで合理的に解決することより、集まって顔を合わせて問題を共有し、合意形成をする場面が多い。

(3)収穫物など分け合う

農家ではなくても畑をつくっている人が多く、家で食べきれないものは分け合うのが常。たくさんいただき、とても助かる。

(4)いろいろな生活の背景を理解しあっている安心感

「あの家はおじいちゃんの介護が大変」「こっちの家は、この前病気をしてまだ全快していない」「あれやこれやで大変らしい」、と状況を把握しあっているため、その家に無理が生じないように慮る。

(5)お祭りが盛ん

コミュニティを体現するイベント。伝統があり、熱狂があり、美しく、「やっぱりここが好きだな」と強く思うことができる。

田舎暮らしの人間関係【2】 ネガティブなつながり

(1)細部まで知られてしまう

学校に履いていった靴下の柄まで知られていて「あんたあんなに派手なものを履いていったんだってね」と近所のおばさんから言われたり、誰と誰が付き合い始めた、といったことは本人たちが誰にも話していなくても全近所に知れ渡っていたり。

(2)周囲と違って目立ったことをすると変な目で見られる

地方を走る車の色はほとんど白。次いでシルバー。目立つ=協調性がない、という意識からか、個性を表現することを控えていくようです。

(3)盾突くと村八分

前例主義や、年功序列など、暗黙の決まりを破ろうとすると地域から「干される」。秩序こそ命。ある種、体育会系ですよね。

(4)暗黙のルール

冠婚葬祭のしきたりや、贈答品やお返しのボリューム、町内会でのご法度事項など、暗黙のローカルルールにしばられる。

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なぜ、わたしは田舎の人間関係で苦労しないのか?


(c) maroke – Fotolia

さてここで、よーくこの2つを見比べてみると、【1】のポジティブなつながりと、【2】のネガティブなつながりには真逆の特徴があることに気がつきます。

【1】には、思いやりと「個」への尊重があり、多様性を認める一面さえ見えます。

【2】には、行き過ぎた同族意識や同調圧力があり、「個」ではなく「群」としての自意識があります。

 地元の窮屈さがイヤで飛び出した人からは【1】の話を聞き、二地域居住や移住をしたいという人は、【2】のつながりを求めているわけです。そしてどうも、わたしは【1】をメインで経験し、たまに【2】的なものにも触れますが、暮らしに嫌気がさすほどの強さや頻度ではありません。

 それはずっと、たまたまなのかな、と思っていました。

たまたま、近隣の方に恵まれていた(←実際そうだと思います!)。

たまたま、土地柄との相性がよかった(←ほんの何キロ離れただけで土地柄が違う、という話も聞きます)。

たまたま、嫌な目に合う機会がなかった(←二地域居住者はイイトコドリ、という揶揄どおりなのかな、と)。

だとすれば、本当にラッキーな話で、今後アンラッキーな目に遭ったら「ああようやく実態が見えた」と思うのかもしれません。

田舎の窮屈さの背景には何がある?

しかし最近、これまでの「田舎のつながりは、めんどくさいけど温かい。いいところと悪いところは表裏一体」というわたしの理解は、必ずしも当たらないかもしれない、とも思い始めています。

というのも、【1】の態度を引き出すことになっているコミュニテイが目指すものと、【2】の態度を引き出しているコミュニティが守ろうとしているものが、それぞれ方向性の違うものだからです。

【2】のようなネガティブなつながりは、プライバシーを侵すほど他者に干渉し、コミュニティの価値観を強要することに原因があります。個々がバラバラに自由に動いてしまったらコミュニティの運営に支障が出るからでしょう。

都市が自由だと言われるのは、コミュニティの運営が、そもそもほとんどないからです。

「みんなで力を合わせて生きていこう」という暮らしには統治が必要ですから、「みんなから外れてはいけない」→「目立つは悪」→「個性を出せない、息苦しい」に直結しやすいと言えます。

いつの間にか、「支え合う」が「ひとりで立つな」にすり替わる不思議。集団の統治が個人の自由より優先されることで、「まとまりとして生き延びる」歴史が積み重ねられたのではないかと思います。どちらかというと、草食動物的ですよね。

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実は、小さなコミュニティのほうが居心地がいい!?

一方で、【1】のようなポジティブなつながりは、本当にたまたまできるものなんでしょうか?

わたしがなぜ、【1】に属すことができたか、考えてみました。

ひとつは、コミュニティの「居心地」と「規模」について。

うちの集落は、ほぼ限界集落といっても過言ではない規模です。これは、内部で徒党を組んだり村八分にしたり、と勢力分布ができるほど規模がないとも言えます。構成員の人数がようやく2桁、といった規模ですから。

こうなると、ひとりひとりの顔が見えるどころか、どの人もとても大事な存在となってきます。人数だけ見れば、もちろん集落にとっては存亡の危機を感じる状況なのですが、「居心地」と「規模」は大いに関係性があると確信しています(もう少し多くてもいいですけどね。笑)。

ちょっと話がずれますが、学校のクラスが40~50人なのと、20~30人なのとでは、日常のクオリティが違ってきます。少人数だとひとりひとりに役割や立場ができ、自分が必要とされている実感から自己肯定感も育ちやすいとのこと。いじめもほとんど起きません。

また、多様性のある社会というのは自然発生的にできるものではない、と考えます。違いのある個人同士が「近くで」付き合ってこそ、理解が進み、共感が生まれ、それぞれを認め合うことができるものです。

とても小規模なコミュニティこそ、多様性のある社会をつくるのにふさわしいのではないかと、最近は強く感じています。

小さな小さなコミュニティは「自立した個人のつながり」を生む

もうひとつは、「自立した個人同士のつながり」かどうか、について。

上記のようにコミュニティが少人数だと、集団としての均質性よりも個々の輪郭のほうが重要になってきます。二地域居住者や移住者などの異分子がいれば、なおのことです。

輪郭のある個人の集合体は、混ざり合うけれども溶け合わず、必要な時は「集合!」となり、それが終わると「解散!」して個々に戻っていくことが可能です。

大事なのは、窮屈でもなく、バラバラでもなく、距離の調節ができる状態を保持すること。全体に紛れられないくらいの規模の集落で、個々が集落に責任感を持つようになると、誰かに引っ張られて無抵抗に従う、という事態がなくなります。

「限界集落的な小規模コミュニティ」は「自立した個人同士のつながり」を生む、だなんてね。哀れんだ眼差しで見られる限界集落は、実は居心地がいい、だなんてね。

暗い話題しかない地方の人口減少問題ですが、人が少ないなりによいことがあるのは、ある種の希望です。

ポジティブなつながりがほしくて田舎に住みたい方は、小さな小さな集落をあえて選んでみることをおすすめします。

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SNSが田舎暮らしのつながりを変える!?

最後に、ひとこと。

実は田舎に住む人こそ、SNSでのつながりを持つことで、暮らしに風穴があくのではないかと思うことがあります。

わたしたちはSNSのある暮らしは当たり前で、その弊害まで実感するに至っていますが、高齢者がSNSで人とつながるメリットは実は大きい気がします。

物理的には少人数の地域住民としかつながることしかできなかったとしても、SNSによって広い友人関係をつくることは可能です。そうした交流のなかでこそ、自分たちの地域の良さが見えてくるもあります。

また、いろいろな価値観に触れることで、地域内の「ネガティブなつながり」に対する自浄作用も生みます。

だって、手元の人間関係だけだった興味の対象が、ぐんと広がりますから!

小さなコミュニティと、広いつながり。これが、田舎暮らしならではの新たな居心地だと思っています。

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この記事を書いた人

NPO法人南房総リパブリック理事長

1973年、東京都生まれ。1996年、日本女子大学卒業、1998年、同大学大学院修了後、千葉学建築計画事務所勤務を経て建築ライターへ。2014年、株式会社ウィードシード設立。 プライベートでは2007年より家族5人とネコ2匹、その他その時に飼う生きものを連れて「平日は東京で暮らし、週末は千葉県南房総市の里山で暮らす」という二地域居住を実践。東京と南房総を通算約250往復以上する暮らしのなかで、里山での子育てや里山環境の保全・活用、都市農村交流などを考えるようになり、2011年に農家や建築家、教育関係者、造園家、ウェブデザイナー、市役所公務員らと共に任意団体「南房総リパブリック」を設立し、2012年に法人化。現在はNPO法人南房総リパブリック理事長を務める。 メンバーと共に、親と子が一緒になって里山で自然体験学習をする「里山学校」、里山環境でヒト・コト・モノをつなげる拠点「三芳つくるハウス」の運営、南房総市の空き家調査などを手掛ける。 著書に『週末は田舎暮らし ~ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記~』(ダイヤモンド社)、『建築女子が聞く 住まいの金融と税制』(共著・学芸出版社)など。

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