大河ドラマの主役・北条氏のふるさと「伊豆」は面白すぎる場所 日本史の重要な変わり目になぜか登場(2/2ページ)
朝倉 継道
2022/02/09
黒船・ハリス・反射炉――近代への足あとが記された下田街道
さて、その韮山城跡の西方、さらには北条氏邸跡の東側、両者に挟まれた平坦地に目を転じてみよう。そこを1本の道が通っている。旧下田街道だ。伊豆半島の南端、港町下田を目指してはるかに南下している。
その下田の町が、今度は幕末日本史の舞台となった。嘉永7年(1854)、下田は日米和親条約に基づき最初の開港地となる。安政3年(1856)にはアメリカ初代駐日総領事タウンゼント・ハリスが、この町に伽藍を構える曹洞宗玉泉寺に入り、ここが最初のアメリカ総領事館となっている。
タウンゼント・ハリス
そこで、下田街道を北上し、もといた辺りに戻ってみよう。北条氏邸跡や韮山城跡のある辺りだ(現伊豆の国市・伊豆箱根鉄道「韮山」「伊豆長岡」両駅周辺)。ただし、時代は北条氏や伊勢氏の頃ではなく、下田が開港して少し経ったくらいの時期としたい。すると、韮山城跡をのせた城山の南端から1kmも行かない辺りで、何やら大規模な工事が始まっているのにわれわれは気付くはずだ。
「韮山反射炉」がここで組み立てられている。伊豆韮山代官江川英龍(坦庵)が、当初下田でこれを手がけ、のち不都合があって現場をこの場所に移転させた。英龍の死後(安政2年・1855)は息子の英敏が工事を引き継いでいる。ほどなく反射炉は完成し(安政4年11月・1857)、その後数年にわたって稼働した。のちに保存され、現在は世界遺産のひとつとなっている。
韮山反射炉/©︎mrpeak・123RF
日本の近代の礎となった重要なプロジェクトのひとつがこの伊豆の地で進行し、見事に成功をおさめたことになるわけだ。なお、反射炉完成の前月にはすぐそばの下田街道を通って、ハリスが将軍謁見のため江戸に向かっている。総勢350名にもおよぶ大名行列並みの陣容が整えられての旅であった旨、ハリス自身が日記に書き記している。
一方、英龍・英敏を出した江川家だが、屋敷がいまも残っている。「重要文化財江川邸」として一般公開されており、幕府旗本家たる地方官の家の様子を知るためのよい資料となっている。場所はさきほどの山木判官・平兼隆の館と韮山城跡の北部に挟まれた付近となる。要はこれらも思いきりご近所さんだ。
江川邸
つまりは、日本の中世を開いた扉と、近世に続く扉、両方の扉をひらく鍵穴がぽっかり空いていた――と、先般この土地のことを記したが、加えてここには日本の近代をひらいた鍵穴のひとつまでが空いていたことになる。開港地となった下田や、源頼朝・北条政子のロマンスの舞台だったとされる熱海(伊豆山神社)も含めて、伊豆は日本史の重大な変わり目にはなぜか必ず登場してくる、実に運命的かつ面白い場所といえるだろう。
伊豆半島は南の海からやってきた
話は変わり、今度はわれわれの足の下にある大地=プレートについて触れたい。日本列島は地球の表面を覆うプレートのうち、主には2つのプレート上にあることが知られている。北米プレート(あるいはオホーツクプレート)と、ユーラシアプレートだ。
ただし、その日本列島本土の真ん中に、これらいずれのプレートにも載らず、独自の位置を占めている特異な場所がある。それが伊豆となる。伊豆半島は、日本列島南方に広がるフィリピン海プレート上にある海底火山群がプレートの北上に伴って隆起し、ついには日本列島にぶつかって半島になった土地であるとされている。
なお、伊豆の半島化は約60万年前のことといわれている。その前後、当地では大型の火山が次々と噴火して噴出物を盛り重ね、これにより現在の伊豆半島の姿がほぼかたちづくられた。
そうしたわけで、冒頭近くにふれた北条氏邸跡がある守山もまた、太古にはその素(もと)となるものは海底に埋まっていたらしい。かつて海底火山が噴出させた岩や砂のかたまりが地上に現れたのち、幾万年にわたって木々や草、木の葉などによる土くれがこれを覆い尽くしたものであろう。
伊豆は、日本人の歴史における奇妙な重なりをその上にのせた面白い土地だが、その成り立ちからしてそもそも面白い場所ということになる。
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この記事を書いた人
コミュニティみらい研究所 代表
小樽商業高校卒。国土交通省(旧運輸省)を経て、株式会社リクルート住宅情報事業部(現SUUMO)へ。在社中より執筆活動を開始。独立後、リクルート住宅総合研究所客員研究員など。2017年まで自ら宅建業も経営。戦前築のアパートの住み込み管理人の息子として育った。「賃貸住宅に暮らす人の幸せを増やすことは、国全体の幸福につながる」と信じている。令和改元を期に、憧れの街だった埼玉県川越市に転居。