1964-2020東京五輪へと続く道路開発2――昭和の“遺構”を使った銀座・築地の一体開発とは?
立木信(たちき まこと)
2021/06/16
写真/立木 信・OGW417Studio
水運都市の川と運河を道路にしてきた戦後の東京
1964年の前回の東京五輪を7年前にした57年、高速道路を所管する旧建設省は、都市計画都市高速道路に関する「早期開通マジック」(基本方針)を打ち出した。
都心では高速道は極力、未利用地、河川・運河上を利用することを奨励。これで都内にあった運河や外堀を埋め、その上に高架を作った現在の首都高速網ができた。当時は高速道もどんどん都心を分断して網掛けするのが「よし」とされた。その結果が評判の悪い「お江戸・日本橋の上にかかる高架式のコンクリートの首都高」だ。
水上・水運交通都市だった江戸は明治維新によって帝都・東京と名を変え、明治、大正、昭和と時代を経ながら、鉄道網が高度に発展して今のような首都圏を形成していった。そして、戦後、焼け野原から復興し、高度経済成長期に入ると、モータリゼーションの流れによって、それまであった運河や川はどんどんと埋められ、その上に道路に河川や海岸など水際を利用した高速道路網、環状・湾岸道路網を発達させた。
その1つでもある首都高晴海線も運河を埋め立て、その結果、河川の汚染を覆い隠した。埋め立てはさらに進められ、71年には築地川の東支川の小田原橋、海幸橋から隅田川までも埋められた。
前回(1964-2020東京五輪へと続く道路開発1)取り上げた築地~新富町の間の未完の首都高速道路の支線建設計画も、その延長線上にあった。しかし、92年に不動産バブルが崩壊。景気対策で公共事業は急増したものの、「都心に自動車をなるべく入れない」という世界的な都市計画の潮流のなかで、新富町(中央区)と築地(同)を結ぶ高速道路計画は挫折したように見えた。その実、築地本願寺の裏手に、地下の高速用のトンネル道路が用意されていたことは前回に見てきた通りだ。
本来であれば、新富町でから分岐し、築地川の緑道の真下を抜けて築地本願寺の裏を通り、さらに築地市場の脇から隅田川を渡り、湾岸線へ至るルートだった。
中央区がまとめた「首都高速晴海線計画の見直しを求める意見書」(2010年)には、計画ルートについて次のように記されている。
〈晴海・築地区間については、地下構造となり、首都高速都心環状線銀座に合流するラインと、新大橋通りへ曲がり築地市場正門の手前に入出路をつくるライン、首都高速都心環状線新富町へつなげるラインとされていますが、これらについては、現在何の動きもなく、事業化の見通しが立っていない状況にあります〉
この文面からは、機会があれば、関係者に計画凍結の現状からの変化を求めていく考えがあったことをうかがわせる。
休止していたルートの復活と、道路の上はフタをして
休止していた計画ルート案は、勝どき橋の南側を築地市場方面へ平行に進み、そのまま現在の中央区区営築地川第一駐車場の東側へ進むので、場外を分断し、築地魚河岸の用地のなか(あるいは地下)を通る。さらに川の掘り込み跡に沿って築地本願寺裏手へ北進し、北東へ進んだ後に地下鉄有楽町線の新富町駅付近へ至る。
休止していた計画ルート案
1964年の東京五輪の開催を契機に計画がつくられたこのルートは、築地への支線との接続ポイントも開通が遅れたため、首都高晴海線(2.7km)は、300億円を投じて豊洲方面からはわずかに延伸されたが、まだ、新富町・築地まではつながらない高速道になっている。
一方で、前回オリンピックから55年あまり、バブル経済から30年あまりの時を経て、今、中央区、東京都、国交省、それに建設・管理する首都高速道路会社(旧首都高速道路公団/以下=首都高速会社)は、築地エリアで首都高の上部に人工地盤でフタをして築地・銀座をつなぐ再開発の計画の復活案を温めているというわけだ。
高速の上にある築地亀井橋公園のように高速道路の上にフタをして公園が作られる
中央区はすでに区内の首都高速会社の三吉橋―新尾張橋の約1kmにおいて、道路の上部空間を街づくりに活用可能かを調査。
行政と首都高速会社、再開発に参画する民間企業は連携して、周囲より低い部分(旧築地川など)を通る首都高路線の上部を人工地盤で覆い、首都高で分断されている築地と銀座をつなげることを考えている。関係者たちは、高速道路によって明確に分かれる銀座と築地の街を一体化する野望を抱く。とはいえ、その計画はまだ水面下の話である。
市場のなくなった築地の活性化になるか?
築地市場の豊洲移転によって、かつての賑わいがなくなってきた築地。加えて、コロナ禍によって築地のビルも空室が増えるなかでの高速道路構想は、ある意味、逆転の発想ともいえる。
構想が立ち上がってから約半世紀以上の月日を経て、首都高の上部空間を覆い、過去にあった川や運河の安らぎを、今度は高速の上の空間を利用した街づくりに使うということらしい。このことで、築地~銀座のにぎわいに相乗効果を狙うのだという。
関係者は築地にできる高速道について次のように話す。
「新しい築地の高速道は隅田川の下を通り、築地側の岸に入ってくると考える。築地魚河岸通りは地下を通って、新大橋通りを越えて銀座ランプのあたりで、既存の高速道に接続。そして、地下化する日本橋方面への接続は、新橋演舞場周辺の地下を通す選択肢がある。新橋演舞場や銀座ランプの付近は結節点としてこれから整備する」
銀座の高速KK線、2キロの高架遊歩道に転用へ
首都高速の道路図を見ると都心をぐるりと回る環状線のさらに内側、京橋~西銀座~汐留JCTを結ぶ路線があることが分かる。実際の道路は東京駅から新橋間を新幹線と並行して走る道路である。
実は、この道路は首都高速とつながってはいるが、1951年に財界人23人によって設立された「東京高速道路株式会社(以下=KK線)」という別法人によって銀座の交通量緩和のために銀座を囲む外堀、汐留川、京橋川を埋め立てて作られた全長2キロ程度のミニ高速道路である。ミニ高速道路なので、耐荷重やカーブ区間の道路幅の関係から、大型車の通行は禁止だ。道路完成後、所有権は東京都に移った。
KK会社は「銀座インズ」「ファイブ」などの高架下商業空間も経営してきたが、2年前に同社は、道路を保有する都から30年の定借契約を更新している。
高速の下は店舗が入るKK線
道路が通行できるようになって50年以上が経ち老朽化が目立つKK線は、補強して大型車も通れる首都高と同じ仕様(規格)にして高速道として継続利用することも一時、検討された。
しかし、補強に大金がかかるうえ、コリドー街などの高架下商店街が長期の工事で使用できなくなるため、店舗への営業補償もあって工事を断念。数年前から、水面下で、遊歩道化される(緑のプロムナード構想)が検討されている。
そうなるとKK線は高速道路として使えなくなるが、首都高速道路の日本橋区間の地下化に伴う事業で、銀座を通過する首都高を地下化(トンネル化)される予定だ。
とはいっても計画通り完成するのは、10年程度、あるいは、それ以上要すると見られ、着工時期など具体的なスケジュールは固まっていない。
モデルはニューヨークの「ハイライン」
さて、KK線が遊歩道化されれば、高架式の高速道路の跡地を利用した歩行者道は日本初のこと。構想は鉄道の廃線跡を利用したニューヨーク名物の「ハイライン」が手本となる。
ニューヨークのハイライン/©︎bwzenith・123RF
ニューヨークのハイラインは、各国の都市再生・都市計画の教科書によく載るほど有名で、日本の建築家、学者、ゼネコン社員らが常時、見学に訪れているという。
銀座のKK線がニューヨークのハイラインのように完成すれば、浜離宮庭園も近く、銀座と築地の連結を象徴する新たな観光資源となりうるだろう。
しかも、現在のKK線下の店舗は振動や騒音があるため、その分、賃料が安いようだ。だが、空中公園の真下にならばプレミアムが付き、入居希望者が増える可能性もあり、銀座活性化の起爆剤としても期待される。
一連の計画のプロジェクトをつなぐ核として、築地においては、松竹の本社ビル(東劇ビル)、新橋演舞場の入るビル(旧日産自動車本社別館、現在は野村不動産が所有)、旧電通本社ビル群(住友不動産が買収)に至るエリアの再開発が構想されている。
解体される築地の丹下ビル
昭和の東京五輪の“遺構”が復活されようとする一方で、昭和に作られた文化財級という声もあった築地の丹下ビル(旧電通本社ビル)などが解体される――そして、令和の新しい街並みが作られていく。
この記事を書いた人
経済アナリスト
マクロ経済面から経済政策を批評することに定評がある。不動産・株式などの資産市場、国や自治体の財政のバランスシートの分析などに強みを持つ。著書に『若者を喰い物にし続ける社会』(洋泉社)、『世代間最終戦争』(東洋経済新報社)、『地価「最終」暴落』(光文社)などがある。