ウチコミ!タイムズ

賃貸経営・不動産・住まいのWEBマガジン

一橋徳川家――御三家、御三卿の中で目立つ存在になった理由

菊地浩之菊地浩之

2021/06/08

  • Facebook
  • Twitter
  • LINE
  • Hatebu

徳川治済 /茨城県立歴史館 Public domain, via Wikimedia Commons

御三卿は「家」として存続させるつもりはなかった?

NHK大河ドラマ『青天を衝け』のキーマンになっているのが、一橋(ひとつばし)徳川慶喜(演:草なぎ剛)だ。慶喜は水戸徳川家の9代藩主・徳川斉昭(なりあき)の7男として生まれたが、御三卿(ごさんきょう)の一つ・一橋徳川家の養子になった。

御三卿は、8代将軍・徳川吉宗の子、もしくは孫を家祖とする徳川将軍家の一門である。

具体的にいえば、吉宗の次男・徳川宗武が江戸城田安門近くに屋敷を与えられ、田安徳川家を興した。同様に、4男・一橋徳川宗尹(むねただ)が江戸城一橋門近く、吉宗の孫・清水徳川重好(しげよし)が江戸城清水門近くに屋敷を与えられ、一家を興した。家禄は10万石、家臣は平岡円四郎(演:堤真一)のように旗本の出向組が多かった。


徳川宗尹/東京都江戸東京博物館 Public domain, via Wikimedia Commons

当初、幕府は御三卿を家として存続するつもりがなかったようだ。そのため、男子は厄介者で、なるべく他家の養子に押し付けようとした。一橋徳川宗尹は長男が養子に出されている。

越前松平家が家格引き上げを狙って、吉宗の子、もしくは孫を養子にしたいと願い出ると、宗尹の長男・重昌(しげまさ)を養子に送り出し、重昌が死去すると、その弟・重富(しげとみ)を再び養子とした。家督を継いだのは4男の一橋徳川治済(はるさだ)である。さらに治済の弟・治之(はるゆき)も福岡藩黒田家の養子に出されている。藩主・黒田継高(つぐたか)は男子が死去していたため、外孫(娘の子)を養子にすべく幕府に打診したが、幕府は一橋徳川家からの養子を強引に押し付けたのだという。

11代目将軍の輩出と父・治済によって潮目が変わる

潮目が変わったのは、一橋徳川治済の長男・家斉(いえなり)が11代将軍を継いだからだろう。一昔前まで、田沼意次が家斉の将軍擁立の黒幕といわれていたが、近年では治済の暗躍が指摘されている。治済は政治巧者で、松平定信の老中就任などにも関わったといわれている。ましてや将軍の父なので、隠然たる影響力があった。ここに至って、御三卿の存続は既定路線となったのだろう。

一橋家は治済の4男・斉敦(なりあつ)が継ぎ、以降は田安家や将軍家から養子をもらって家督を継承した。とはいえ、みんな治済の子孫である。ところが、9代目にまったく治済の血筋を引かない慶喜が家督を継ぐことになった。そして、慶喜が将軍家の家督を継ぎ、征夷大将軍となる(ここら辺は割と知られた話なので割愛する)。

慶喜以後の一橋家は、慶喜の血縁で


徳川慶喜/Public domain, via Wikimedia Commons

当然ではあるが、一橋家には新たな養子が来た。前尾張藩主・徳川茂栄(もちはる。1831~1884)である。

茂栄は、美濃高須藩主・松平義建(よしたけ)の五男として生まれた。有名な「高須四兄弟」の一人である。長兄・徳川慶恕(よしくみ。のち慶勝)は尾張徳川家を継ぎ、茂栄の二人の弟は、会津松平家を継いだ京都守護職・松平容保(かたもり)、桑名藩の久松松平家を継いだ京都所司代・松平定敬(さだあき)と、名君ぞろいの兄弟だった。

茂栄は当初、実家の美濃高須藩を継いでいたのだが、安政の大獄で実兄・徳川慶恕が隠居に追い込まれると、慶恕の子・元千代(のちの徳川義宜)がまだ生後2カ月だったので、ピンチヒッターとして尾張徳川家を継いだ。

ところが、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、1862年、安政の大獄で隠居させられた実兄・徳川慶恕の謹慎が解ける。尾張藩内は慶恕派と茂栄派の対立が深まり、茂栄は1863年に隠居して、慶恕の子・元千代に家督を譲った。

茂栄は隠居後、大坂滞在中の将軍・家茂の側近くにあり、「親と思うぞよ」といわれるくらい信頼されていた。家茂の父・徳川斉順(なりゆき)は、11代将軍・徳川家斉の7男として生まれ、清水徳川家を継いだ後、紀伊徳川家の婿養子となった。だから、家茂は、父と縁のある清水徳川家の当主に茂栄を迎えようと画策したという。

ところが、慶喜が異母弟、徳川昭武(演:板垣李光人)の才能に感じ入り、パリ万博に派遣する際に箔を付けるために、清水徳川家の当主に据えてしまう。ついでをいえば、このパリ派遣に随員として従ったのが、渋沢栄一(演:吉沢亮)である。

そこで、茂栄が一橋徳川家の家督を継ぐことになったのだ。そして、茂栄の子・徳川達道(さとみち。1872~1944)が家督を継ぎ、慶喜の三女・鉄子と結婚。慶喜は一橋家のことを忘れていなかったようだ。

達道は40代半ばになっても子に恵まれなかったので、水戸徳川家から養子・徳川宗敬(むねよし。1897~1989)を迎えた。この宗敬は慶喜の甥の子にあたる。しかも、その妻は慶喜の孫娘である。慶喜の五男・池田仲博(なかひろ)が旧鳥取藩池田家の婿養子になっていたのだが、その仲博の長女・幹子(もとこ)が宗敬と結婚したのだ。

慶喜以後の一橋家は、男系だけを見ると慶喜の子孫ではないが、女系も含めると慶喜の子孫が継承するように工夫されていたようだ。

【関連記事】『青天を衝け』登場人物の家系
渋沢栄一(演:吉沢亮)
渋沢家――さまざまな分野に広がる子孫、財産より人脈を残した家系
松平慶永(演:要潤)
越前松平家――子孫は幸村の首級を挙げ、幕末・維新は政治の中枢、昭和天皇の側近…歴史の転換期のキーマン

【連載】「家」の研究 記事一覧はこちら

  • Facebook
  • Twitter
  • LINE
  • Hatebu

この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

ページのトップへ

ウチコミ!