ウチコミ!タイムズ

賃貸経営・不動産・住まいのWEBマガジン

鍋島家――鍋島猫騒動はやっかみ? 薩摩と並ぶ財力と軍事力で雄藩の一角に(1/3ページ)

菊地浩之菊地浩之

2021/05/08

  • Facebook
  • Twitter
  • LINE
  • Hatebu

鍋島直茂像/三浦子サン筆 Public domain, via Wikimedia Commons

主家・龍造寺家の家臣から当主へ

戦国時代、九州は龍造寺(りゅうぞうじ)家、大友家、島津家という戦国大名によって三分されていた。ところが、龍造寺家を一代で興隆させた当主・龍造寺隆信が、1584(天正12)年に沖田畷(なわて)の合戦で、あっけなく討ち死にしてしまう。

龍造寺家を破った薩摩の島津家が九州を席巻し、九州制覇の大手をかけた。危機を感じた大友家が羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に助力を請い、1587(天正15)年に秀吉は25万の大軍を率いて九州を攻略。龍造寺家も豊臣政権下に組み込まれた。ところが、隆信の嫡子・龍造寺政家(1556~1607)は病弱で暗愚だった。

秀吉から所領を安堵されたので、龍造寺家は軍役などで奉公しなければならないのだが、当主・政家は病弱で奉公することができず、名代を立てるにも子の龍造寺高房(1586~1607)はわずか3歳の幼児だった。

そこで、政家の祖母・慶誾(けいぎん)は、家老の鍋島直茂(なべしま なおしげ)に龍造寺姓を与え、高房を直茂の養子とした。さらに、直茂の嫡子・鍋島勝茂(かつしげ、1580~1657)を龍造寺一族の養子とした。これにより、龍造寺家に組み込まれた鍋島直茂、勝茂父子が、政家に代わって豊臣家に対する奉公体制を構築したのだ。

秀吉は龍造寺家の当主が政家であることを認めつつも、実態としては鍋島直茂が龍造寺家を指揮していることを把握しており、ときとして露骨に鍋島家を引き立てた。こうして徐々に龍造寺家の実質的な当主が鍋島直茂であるとの認識が広がっていった。

鍋島猫騒動の背景にあったものとは?

1607(慶長12)年3月、龍造寺高房は前途を憂いて江戸屋敷で自殺を図り、未遂に終わったものの、9月に死亡した。嫡子はなかった。翌月には父・政家が死去し、龍造寺の本家は断絶した。

江戸幕府は龍造寺一門を召集し、龍造寺家の家督を誰に継がせるか意見を求めた。

彼らは鍋島直茂の功績によって龍造寺家が存続した経緯を説明し、直茂こそ家督を継ぐべきであるが、高齢であるため、その子・鍋島勝茂が相続すべきと答えた。ここに至って、鍋島家が名実ともに肥前佐賀藩主となった。

龍造寺家最後の当主・高房には嗣子がなかった。が、実は当時4歳になる隠し子がおり、のちに仏門に入って伯庵(はくあん)と名乗った。

1634(寛永11)年に3代将軍・徳川家光が上洛した際、伯庵が龍造寺家の正統な後継者であると主張したが、江戸幕府が龍造寺一門を召集して意見を問うと、かれらは鍋島家を支持。伯庵は敗訴し、鍋島家はお咎(とが)めなしとなった。

しかし、伯庵はその後も訴えを繰り返したため、会津藩預かりに処せられた。いわゆる「龍造寺伯庵事件」である。

鍋島家といえば、御家騒動の「鍋島猫騒動」が有名であるが、その下地になったのは「龍造寺伯庵事件」らしい。鍋島家が龍造寺家から佐賀藩を簒奪(さんだつ)し、その陰には伯庵のように無念に思う龍造寺一族がいたはずだという発想から物語が作られ、江戸時代後期に「鍋島猫騒動」として脚色されたのではないか。

次ページ ▶︎ | オタク藩主・直正の藩政改革と技術革新政策 

  • Facebook
  • Twitter
  • LINE
  • Hatebu

この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

ページのトップへ

ウチコミ!