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山内家――関ヶ原での一豊、幕末の容堂、2人の藩主の活躍で歴史に名を残す

菊地浩之菊地浩之

2021/04/09

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山内一豊/Public domain, via Wikimedia Commons

「やまのうち」ではなく、「やまうち」

山内家の祖・山内一豊は「やまうち かつとよ」という。ところが、数年前まで「やまのうち かずとよ」だと信じられていた。

山内家は鎌倉御家人の山内首藤(やまのうちすどう)家の子孫と称している。

思い込みというものは恐ろしいもので、「やまのうちすどう家の子孫であれば、やまのうち家に違いない」と学者・先生をはじめ誰もが疑わなかった。直系の子孫・山内侯爵家が「やまうち」と名乗っているにもかかわらず。

山内一豊とその妻(俗に千代と呼ばれる)を主人公とした2006年放送のNHK大河ドラマ『功名(こうみょう)が辻』が放映されるにあたって、「やまのうち かずとよ」が実は「やまうち かつとよ」であると認知され、一般にも知られるようになったのだ。

山内一豊――掛川城開放で5万石から土佐一国の大名に

一豊の父・山内盛豊は、尾張守護代の岩倉(愛知県岩倉市)城主・織田伊勢守家に仕えて家老になったが、織田信長に攻め滅ぼされたという(織田家は尾張上四郡を治める伊勢守家、下四郡を治める大和守家に分かれ、大和守家の三奉行の一つ・弾正忠家が信長の実家である)。

まだ幼少だった山内一豊(1545~1605)は母とともに難を逃れ、尾張・美濃・近江の武将の家臣を転々とし、いつの頃から織田家臣・木下秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕えるようになった。織田家に仕えたのか、秀吉に直接仕えたのか、その経緯がなんだったのかは不詳である。

一豊は秀吉の大出世とともに、子飼いの家臣として順調に出世。1585(天正13)年には秀吉の甥・羽柴秀次(のちの関白・豊臣秀次)の附家老として、近江長浜城2万石を与えられる。さらに秀次の清洲城移封、家康の関東移封にともない、一豊は遠江掛川城5万9000石に加増される。秀吉が家康を警戒して東海道に諸将を配置した一環であったが、一豊はその長老格だった。

1600(慶長5)年、徳川家康と他の豊臣家宿老が対立し、家康は豊臣家の諸将を従えて上杉景勝討伐に会津に向かう。これに呼応するように石田三成が挙兵。家康は小山で軍議を開き、西に転進して三成を討つことを諸将と確認する。

その際、一豊は家康に対して掛川城を開放することを献策。長老格の発言に東海道の諸将もこれに従い、家康は関ヶ原の合戦を有利に進めることができた。さしたる武功もない一豊が土佐一国を与えられたのは、この献策によるものだといわれている。

関ヶ原の合戦後、土佐を治めていた長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)は改易され、山内一豊が土佐一国を与えられた。新領主・山内家に対する長宗我部旧臣の抵抗は激しかったが、一豊はこれを強引に制圧。長宗我部旧臣の子孫は「郷士(ごうし)」と呼ばれる下層武士に取り立てられたが、山内家に従って遠江から入国した「上士(じょうし)」からいわれなき差別を受けるに至った。幕末維新の代表的な志士、坂本龍馬、武市半平太(たけち はんぺいた)、中岡慎太郎、三菱財閥を興した岩崎弥太郎はいずれも郷士出身である。

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山内容堂――「四賢侯」の一人として


山内容堂/published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association), Public domain, via Wikimedia Commons

1848(嘉永元)年、藩主・山内豊煕(とよてる)の急死を受け、実弟・山内豊惇(とよあつ)が藩主となるが、わずか13日で死去してしまう。豊惇の実弟・山内豊範(1846~1886)はまだ3歳の幼児だったため、急遽、分家の山内豊信(とよしげ、号・容堂、1827~1872)が藩主に選ばれた。

豊信は幕末の「四賢侯」と呼ばれたが、豊信が評価されたのは他の三者(島津斉彬、松平春嶽、伊達宗城)のような近代的な君主としてのリーダーシップではなく、戦国武将のような奔放不羈(ふき)な性格であり、特に維新の志士から幕末動乱に覇を唱える大名として期待されたからだ。

豊信は吉田東洋(とうよう)を参政(家老)に抜擢し、大胆な人材登用による藩政運営を企図した。ところが、江戸幕府の大老に井伊直弼が就任し、「安政の大獄」で反対派を粛清すると、豊信も隠居させられてしまう。かくして1858(安政5)年、豊信は隠居して容堂と名乗り、江戸藩邸に幽閉された。

藩主には山内豊範が就任したが、14歳の少年だったため、藩政の実権は容堂が掌握し、吉田東洋に政務を委ねた。吉田東洋は私塾で後藤象二郎(しょうじろう)、福岡孝弟(たかちか)、岩崎弥太郎らの人材を育て、西洋技術に着目した富国強兵策を強引に推進した。

開明的な吉田東洋の施策は、藩の上級家臣からなる守旧派、下級武士の攘夷派郷士の双方から憎まれることとなった。

当時、土佐では郷士の間で尊皇攘夷運動が盛んになり、郷士・武市半平太(号・瑞山[ずいざん])が中心となって土佐勤王党を結成。攘夷決行を妨げとなる吉田東洋を暗殺した。

1860(万延元)年、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、山内容堂は謹慎を解かれ、豊範の後見として藩政に復帰。そして、時勢が「公武合体」に傾いたと判断すると、藩内の勤王派・土佐勤王党を一斉に処分。武市瑞山ら主要メンバーを投獄し、死に至らしめた。これにより藩内の勤王派はほぼ壊滅状態となり、一部の藩士が脱藩して活動を続けるに留まった。

薩長出身で明治新政府の高官になったのは、ほぼ下級藩士だったが、土佐藩出身者はほぼ上士出身で、容堂の影響を大きく受けていた。

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幕末~明治 土佐が維新の中核になれた理由

容堂のお気に入りは後藤象二郎と乾退助で、二人は幼なじみで仲がよかったが、その立ち位置はかなり違っていた。明治維新を間近に控えた土佐藩は、この二人を軸にそれぞれ「大政奉還」「武力討幕」という二つの動きを進めていく。

後藤象二郎は容堂の考え方の忠実な具現者であり、公武合体の見地から朝幕間の武力衝突を避けるべく、坂本龍馬と組み、「大政奉還」の実現に向けて奔走。容堂が幕府に対して大政奉還を建白し、徳川慶喜の大政奉還に繋がった。

一方、乾退助(のちの板垣退助)は上士では数少ない尊皇攘夷派であり、1867(慶応3)年に中岡慎太郎の仲介で薩摩藩の西郷隆盛と討幕の密約を交わし、「薩土同盟」を締結した。翌1868年1月に鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、乾退助は土佐藩の軍兵を率いて土佐を出発。京都で山内容堂を説得し、土佐藩の討幕軍参加を認めさせた。退助は天才的な軍略家で、各地に転戦して幕府軍を撃破。会津若松城包囲戦でも勝利を得た。かくして土佐藩は明治維新の原動力として、「薩長土佐」の一角を構成するに至った。

山内容堂は幕府寄りでありながら、「薩長土佐」の一角を成し、大名としては実務能力が高かったらしい。明治新政府としては、容堂を要職に据えることでバランスのとれた人事をアピールすることができた。

ところが、本人にはやる気がなかったらしい。要職の内国事務総裁、刑法官知事、議事体裁取調方総裁、学校知事などを次々と任官されては、辞職を望むというイタチごっこが続き、やっと1869年に依願退職を認められた。

1869年の版籍奉還で養子の山内豊範は高知藩知事に任命されたが、1871年の廃藩置県で藩知事を免ぜられ、東京に移住し、1884年に侯爵に列した。

侯爵といえば、御三家や前田・細川クラスの大大名である。それもこれも容堂のお陰だろう。というわけで、容堂の実子である山内豊尹(とよただ)が父の遺功により子爵に列している。


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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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