島津家②――激動の幕末、明治~大正での存在感
菊地浩之
2020/12/15
島津斉彬/Nariakira_Shimazu.jpg: published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association)derivative work: Beao, Public domain, via Wikimedia Commons
島津家①――「九州最強の軍団」秀吉・家康に敗れながらも幕末の雄藩になった理由
「お由羅騒動」と島津斉彬の藩主就任
薩摩藩が幕末維新の日本を動かす原動力になったのは、11代薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)の存在が大きい。
斉彬は島津斉興の嫡男として生まれ、幼少より英名の誉れ高く、早期の藩主就任を望む声が多かったが、斉彬が40歳を過ぎても、父・斉興は一向に家督を譲る気配を見せず、側室・お由羅(ゆら)の子である島津久光(ひさみつ)を引き立てようとする始末。薩摩藩家臣は、英邁な斉彬の擁立を望む「斉彬派」と、曾祖父・島津重豪に似た斉彬では藩政を混乱させかねないと危惧する「久光派」に二分された。
結局、「斉彬派」が弾圧され、家老・島津久武をはじめ50人余りを切腹、遠島、謹慎などの処分とした。この事件は俗に「お由羅騒動」と呼ばれている。しかし、老中・阿部正弘らの斉彬シンパの大名は、「お由羅騒動」を逆手にとって、御家騒動を抑えられなかった斉興に隠居を勧告。島津斉彬の藩主就任が実現する。
斉彬は藩政改革を断行して殖産興業と富国強兵に努め、その担い手として西郷隆盛や大久保利通ら有能な下級藩士を抜擢した。また、西洋技術を積極的に導入して反射炉や硝子(ガラス)製作所、陶器製造所、造船所などの近代的洋式工場群を薩摩磯(鹿児島市)に建設。これら工場群を「集成館(しゅうせいかん)」と命名した。斉彬の施策は、薩摩藩を国内きっての雄藩に仕立て上げたのだ。
そして、養女・篤姫を13代将軍・徳川家定に輿入れすることにも成功する。
150年前の縁――篤姫の将軍家への輿入れ
NHK大河ドラマ『篤姫』(2008年放送)の主人公で有名な篤姫が、1856(安政3)年に島津家から13代将軍・徳川家定に輿入れした。その契機は実に150年前まで遡る。
5代将軍・徳川綱吉は側室(大典待[おおすけ]の局)の姪・竹姫を養女としていたが、婚約者が死去するなどで、竹姫の縁談はなかなかまとまらなかった。結局、竹姫は8代将軍・徳川吉宗の養女として、5代藩主・島津継豊(つぐとよ)に輿入れした。
竹姫は8代藩主・島津重豪(しげひで)に女子が生まれたら徳川家に輿入れさせてほしいと遺言した。重豪は早くに両親を亡くし、義理の祖母・竹姫に育てられた秘蔵っ子だったのだ。竹姫の死の翌年、島津重豪に3女・お篤(のちの茂姫、寔子[ただこ])が生まれ、同年に一橋徳川治済(はるさだ/一橋家初代当主・宗尹の継嗣)に長男・豊千代が生まれ、幕府から豊千代・お篤の縁談が命じられた。
ここで思いがけない事態となる。
10代将軍・徳川家治の嫡男である徳川家基(いえもと)が18歳の若さで頓死し、豊千代が次期(11代)将軍候補に選ばれたのだ。豊千代は一橋屋敷から江戸城本丸に入り、徳川家斉(いえなり)と名を改めた。これにともない、お篤も茂姫と名を改め、江戸城本丸に引き取られ将軍家正室となる。
家斉の孫・13代将軍・徳川家定は2人の正室を相次いで亡くし、祖父・家斉が長命で子だくさんだった先例にあやかり、家斉に倣って島津家から継室を迎えたいと考えた。かくして1850年、大奥から薩摩藩家老に「島津斉彬に年頃の娘か、未婚の姉妹はいるか」との問い合わせがあった。斉彬は分家・今和泉島津家の島津忠剛(ただたけ)の長女、一子(かつこ)を養女に迎えていたので、実子として届け出、近衛家の養女として家定のもとに輿入れ。茂姫の通称「お篤」にあやかって篤姫(あつひめ、敬子[すみこ])と改名した。
斉彬の死去、実権を握った久光
島津久光/国立国会図書館蔵
老中・阿部正弘は斉彬の手腕を高く評価し、将軍の義父となった斉彬を幕政に参画させようと企図した。ところが、1857(安政4)年に正弘が病死し、翌1858年7月に斉彬が死去してしまい、実現しなかった。
斉彬は遺言で、異母弟・島津久光の長男である島津忠義(初名・茂久[もちひさ])を後継者に指名。しかし、忠義はまだ19歳と若かったので、久光が国父(こくふ、藩主の父)として藩政の実権を握り、西郷隆盛ら斉彬の側近を次々と左遷し、集成館事業を大幅に縮小する。
1862(文久2)年4月、久光は「公武合体」の実現を目指し、1000人余りの藩兵を率いて上洛。勅使・大原重徳(しげとみ)を奉じて江戸に下り、江戸幕府に幕政改革を迫った。具体的には、「安政の大獄」で不遇をかこった有為な人材の復権。また、一橋徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永(春嶽)を政事総裁職に就任させた。
鹿児島への帰路、武蔵国生麦村(神奈川県横浜市鶴見区)で隊路を乱したイギリス人を殺傷(生麦事件)。イギリスとの賠償交渉がこじれ、翌1863年に薩英戦争を引き起こす。しかし、薩英戦争を機に薩摩藩は西洋文明の優秀さを痛感し、集成館事業の復活や藩士のイギリス留学などに着手するようになる。また、薩英戦争の講和が成ると、イギリスと親密さを増し、鉄砲や軍艦を購入して西洋式軍備の導入に成功。ますます国力を高めた。
その一方、日本国内では同1863年の「八月一八日の政変」で会津藩と組んで長州藩を駆逐。また、横浜の開港問題で幕府と対立して、幕府と長州藩双方の怨みを買ってしまう。久光はやむなく西郷隆盛を赦免して、難しい政治状況の打開にあたらせた。
幕末の薩摩藩
1864(元治元)年、西郷は「禁門の変」「長州征伐」という難しい政局を乗り切り、薩摩藩の力を誇示することに成功するが、その過程で徐々に幕府との関係がこじれ、反幕的な姿勢に傾斜していく。
1866(慶応2)年、西郷隆盛、大久保利通ら薩摩藩首脳は長州藩と「薩長同盟」を結んで、武力による討幕へと方向転換していく。翌1867(慶応3)年10月14日に薩摩藩・長州藩に討幕の密勅が下されたが、同日に奏上された大政奉還により武力討幕の大義名分を失ってしまう。
薩摩藩は膠着状態を打開すべく岩倉具視と共謀。同1867年12月に朝廷は「王政復古」の大号令を発し、慶喜に完全な恭順を求めた。1868(慶応4)年1月の鳥羽・伏見の戦いにはじまった戊辰戦争で勝利し、明治新政府での実権を掌握したのである。
明治、大正――島津家のその後
薩摩藩は長州藩とともに明治維新の原動力となったが、事実上の当主・島津久光の晩年は必ずしも満たされていなかった。
元来、保守的な島津久光は維新後、旧臣・大久保利通、西郷隆盛らが進める明治新政府の政策に納得しておらず、度々不満を漏らしては新政府首脳におそれられた。明治新政府は久光の慰撫に努めた。1869年の版籍奉還で当主・島津忠義が華族に列していたが、1871年9月に島津久光を島津家の別家として華族に列し、5万石の家禄を与えた。また、1873年に久光を内閣顧問、翌1874年に左大臣に任じた。しかし、1875年に久光は帰郷し、鹿児島城下の玉里邸で余生を送った。
久光の高孫(孫の孫)にあたる島津修久(のぶひさ)夫人は西郷隆盛の曾孫・伊津子(いつこ)。結婚式の仲人は大久保利謙(としあき、大久保利通の孫)だった。なお、昭和天皇の皇后・香淳皇太后は久光の曾孫にあたる。その皇太后の兄が学習院の健康診断で色覚異常だったことが判明。長州藩出身の元老・山縣有朋(やまがた ありとも)は、薩摩にゆかりのある皇后の誕生を阻止しようと、これを問題視した。ところが、これが大きな政治問題(宮中某重大事件)となり、山縣の権威が失墜。翌年には死去してしまった。
忠義の孫たちは「錦江会」(鹿児島湾の別称、錦江湾[きんこうわん]に由来するという)と称する親族の会合を催し、定期的に会合を重ね、昭和天皇夫妻、明仁皇太子夫妻(現 上皇)も過去に「錦江会」に参加していたという。
この記事を書いた人
1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。