まちと住まいの空間 第32回 ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり③――銀座、日本橋、神田……映し出される賑わい
岡本哲志
2021/02/09
東京を象徴する3つの繁華街の特徴
これまで2回(①地方にとっての東京新名所、②『大正六年 東京見物』無声映画だからこその面白さ)にわたって『大正六年 東京見物』というドキュメンタリー映画から見る東京の移り変わりについてお話ししてきたが、今回は「東京の賑わいの場」を取り上げる。
映画の中では絵模様の付いたフリップを冠した、「銀座通」(15番目)、「日本橋通」(16番目)、「須田町交差点及広瀬中佐銅像」(17番目)の3つの街が後半の重要なシーンとしてまず登場する。
いずれも現在の中央通り沿い、江戸時代は日本橋を基点に、南が東海道、北が中山道(途中まで日光街道も同じルート)となり、江戸の重要な街道筋に位置した。これらの街は江戸時代初期からの町人地であり、明治以降も繁華街として賑わっていた。
江戸時代の商業集積は何といっても日本橋に一極集中し、名所絵に描かれた賑わいの主役は日本橋だった。この当時の銀座も、神田も職人町の色合いが強く、日本橋に比べ地味さは否めなかった。しかし、元号が明治となり、銀座と神田は街を大きく変貌させる。
銀座は明治5(1872)年の大火以降煉瓦建築の西洋風街並みを当時の錦絵で描かれ、新聞でも賞賛されたこともあって、その存在を全国に知らしめた。加えて、至近距離に西欧と結びつく東京の玄関口・新橋ステーション(新橋停車場)が存在感を示せば、銀座は否応なく繁華街としてのスターダムへと押し上げられた。
絵葉書/新橋から見た銀座通り
一方、神田は、江戸時代に多くの人たちが集散する筋違い(現・神田須田町一丁目)近くが明治以降も賑わう。万世橋駅は、東京駅より一足早い明治45(1912)年に完成し、扇の要に人が集まるように拠点となった。
この駅ができた神田須田町一帯は、メジャーな繁華街として急速に認知されていく。神田は、日本橋、銀座と異なり、街の中心部に核となる鉄道駅が設けられた点で特異な存在となる。
大正期の絵葉書には、銀座通りとともに万世橋駅を中心とした神田須田町交差点の賑わいが数多く取り上げられた。
東京における商業集積の絶対横綱の日本橋。豊富な資金力にものをいわせ、呉服店から百貨店(デパート)に変貌する三越と白木屋が周囲を圧倒する巨大近代建築を誕生させ、名所としての日本橋の面目を保つ。しかしながら、妻木頼黄(つまき よりなか/明治建築界の三大巨匠といわれる建築家)が意匠デザインを担当し明治44(1911)年に完成した「日本橋」が加わる以外、土蔵建築の街並みが圧倒する。
絵葉書/日本橋三越と土蔵の街並み
日本橋は、明治期の大火を経験した後、土蔵造りの建築を選んだことで街並みが江戸回帰していた。明治後期に出現した重厚な和風の風景は、近代を象徴する3つの構築物の背景に過ぎなかった。
近代化する東京において、土蔵の街並みでは絵葉書にはならない時代であり、「和鬼洋才」の考えが強く染み付いてしまったともいえる。ただしこうした視点は、大正期の日本人が抱く世界観であって、明治・大正期に日本を訪れたバートン・ホームズ(1870〜1958)など、欧米の写真家は日本橋の土蔵建築の街並みに大いに刺激され、写真や動画フィルムとして収めている。
明治初期に建設された煉瓦街の銀座
こうした歴史的な背景の中で、映画の中に登場する3つの街のトップバッターは銀座だ。
「銀座通」では「徳川幕府の頃 此処に於いて銀貨幣を鋳造せしを以て此の名あり 帝都一の華麗殷眼の地なり」とサブの説明文が入り、大正期の商業空間のきらびやかさを江戸時代の「銀の鋳造」にかけて解説される。
銀座四丁目交差点(当時は尾張町交差点)付近からの映像には、京橋に建つ第一相互ビルが見え、銀座四丁目交差点角にある服部時計店(現・和光)の初代時計塔がすでにない。このような大正期の光景は大正10年以前にはあり得ないので、映像に登場する銀座通りの街並みは大正11(1922)年ころである。
銀座通りの絵葉書を数多く時代考証すると、明治後期まで多く見られた新橋からの銀座通り風景は撮られなくなり、銀座四丁目交差点付近に撮影対象が移る。東京駅の誕生により、新橋ステーションが東京での中心的な終着駅の役目を終えようとしていた時期だった。銀座通りといっても、単にひとくくりに映されてきたわけではない。
『大正六年 東京見物』では、銀座五丁目から銀座四丁目交差点の街並みと、その先に背景として京橋方面が映し出される。関東大震災以降現在まで、絵葉書によく採用されたアングルの一つだ。
この映像が大正6年ころの撮影であれば、服部時計店の初代時計塔がしっかりと映し出されているはず。
絵葉書/服部時計店の巨大な時計がある銀座四丁目交差点(当時は尾張町交差点)の街並み
服部時計店の建物がすでに取り壊されていることから、銀座通りの映像は新たに撮り直し差し替えられたものだ。大正10年になると、銀座通りの路面改良工事が行われた。
この映像を見ていると、当時の人たちの思いとして、映像を路面改良された新しい銀座通りの風景にしたかったとしても、そのまま差し替えないでほしかったと思えてならない。
江戸時代から商業集積の横綱だった日本橋
「日本橋通」の映像では、サブの解説文が「大問屋大商店銀行会社軒をつらねて繁昌す」となる。
大正期の日本橋は江戸時代から培った商業地としてのポテンシャルの高さにより、まだ他を圧倒できた時代だった。百貨店(デパート)は江戸時代からの大店である三越と白木屋が先導する。映像となった百貨店といえば、三越ではなく、白木屋だった。
その理由は建物にあった。白木屋は、拠点となる地上3階建の百貨店新館を明治36(1903)年に竣工させる。明治44(1911)年には一部5階建に増築した。『大正六年 東京見物』に映る白木屋は増築後の姿である。その周辺は、土蔵の建築が目立つものの、日本橋に向かう白木屋の並びは近代建築が街並みをつくっていた。
絵葉書/白木屋と日本橋通り
そして、映像ではその近代的な光景だけを切り取られている。
一方、三越はどうか。大正3(1914)年に地上5階地下1階のルネッサンス様式を用いた新館が竣工した。この建物は白木屋よりも新しい。ただし、巨大建築の周辺はというと、面的に重厚な土蔵造りの建築群が風景をつくりだしている。新しさからすれば三越だが、全体的に近世的な街並みのイメージが強い白木屋に軍配が上がる。あるいは、銀座からはじまる動画の流れとして、東海道(中央通り)を北上させ、最後日本橋で終わらせるには白木屋となったのかもしれない。
庶民の代表として脚光を浴びる万世橋駅
17番目に登場する「須田町交差点及広瀬中佐銅像」のサブの解説文は、「萬世橋停車場 神田郵便局等の巨大なる建築物に囲まれ 車塵人塵つねに渦き呼で帝都の親不知子不知という」とある。
短命とはいえ、万世橋駅は、庶民の立場で東京駅と互し、日本橋、銀座と比類されるほど、強烈なパフォーマンスを都市空間として示していた(絵葉書5)。
絵葉書/万世橋駅と広瀬中佐銅像
駅のある神田須田町は、解説文に「帝都の親不知子不知(親子でも互いに気遣う暇がない)」と書かれおり、駅周辺には多方向から人・物が集中し、多様にスクランブルする喧噪の場だったことがうかがえる。
『大正六年 東京見物』では、東京駅と対置させるように、万世橋駅にカメラのレンズが向けられる。
東京駅と同じ建築家・辰野金吾の設計となる万世橋駅は、東京駅が完成する2年後に開業する。中央本線は大正8(1919)年に万世橋と東京の間が開通した。10年にも満たないわずかな時期だが、終着駅としての注目度は極めて高かったはずだ。オープニングの映像を東京駅に譲ったとしても、放映時間は東京駅より長く、街の力強さを感じさせる映像である。当時の街の勢いから、後に映像を追加して長くしたかもしれない。
それにしても、庶民感覚が溢れる神田の真ん中に、突如としてヨーロッパの広場概念を組み入れた西洋が神田に降り注ぐ。関東大震災で壊滅的な被害を受け、駅舎自体が姿を消して記憶の薄らぐなか、斬新な映像は一世紀が過ぎた今、大正期の新たな神田像を教えられた感がある。
歴史を背負う東京名所の定番、上野と浅草
映画で19番目に登場するフリップは上野。
タイトル名は「上野公園」である。ここでのシーンは「上野広小路からの入口」「西郷隆盛の銅像」「上野東照宮」「五重塔」「上野動物園の入口」「数々の動物たち」「不忍池と上野の山のパノラマ」「博覧会会場」と驚くほど要素が多く、上映時間も極めて長い。とはいえ、これらの多くは後で挿入されたシーンと考えられる。『大正六年 東京見物』に登場する絵模様で飾られたフリップに限ると、映された場所は通常1つか、2つのシーンである。だが、上野は8つものシーンで構成されている。「上野公園」の原型となる映像はどれなのか。サブの解説文は「昔は「忍が丘」と称せられたり 全山老樹を以て覆われ 中央は桜樹に富む」とある。
たまたまだが、上野東天紅の上層階で食事をする機会があり、そこから見た風景は映像にある「不忍池と上野の山のパノラマ」とほぼ同じ広がりで風景を楽しむことができた。
写真/不忍池と上野の山のパノラマ
また、映画のサブの解説文に従えば、「不忍池と上野の山のパノラマ」は『大正六年 東京見物』の原型となる映像から外せない。
風景としては文句ないところだが、これだけではどれくらいの人が上野公園だと認知できるだろうか。制作者側も「上野公園といえば」という定番をはじめに用意する必要があった。上野公園で必ず登場する絵葉書は「西郷隆盛の銅像」である。映像は上野広小路から階段を上がり、西郷隆盛の銅像へ導かれる。
映画の20番目に登場するは浅草だ。
浅草のタイトルは「浅草観音及十二階」である。ただし、サブの解説文はない。浅草は「言わずもがな」と、まずは「浅草観音堂(本堂)」となる。浅草寺には、近代の娯楽の殿堂である六区が隣接する。明治23(1890)年に完成した十二階(凌雲閣)は、明治後期になると展望施設として必ずしも人気を得ていたわけではない。それでも、ひょうたん池越しに望む十二階の光景は浅草に欠かせない風景名所となっていた。
絵葉書/ひょうたん池越しに見る十二階(凌雲閣)
十二階の外観は絵葉書の数も多かった。
浅草寺と六区は、近世をベースにその後の近代が住み分けながら新しい浅草像をアピールし、江戸から、明治、大正、昭和、高度成長期と、人気スポットであり続けた。現在では、浅草とスカイツリーが外せない東京観光の定番というところか。地方から東京を訪れた人たち、あるいは世界中から来る外国の人たちにとって、浅草は圧倒的ナンバーワンの東京名所なのだろう。
水の街東京――隅田川の近代
最後、21番目のフリップは「両国橋」。
両国橋は浅草と同様に文字の回りを装飾するが、サブの解説文はない。両国橋は明治34(1901)年起工し、明治37(1904)年に開通式が行なわれた。東京の橋の中でも重要な橋であることを示すように、細部の装飾に力が入れられた。
『大正六年 東京見物』では、両国橋のシーンに至るまで水都東京をイメージさせる風景が積極的に映像化されてこなかった。大正期の東京は、水上交通もまだ活発で、下町に細かく巡らせた掘割の隅々まで船が行き来していた時代である。
水の都東京を代表する日本橋は登場してはいるものの、陸からの視点が強い。そのため日本橋のシーンは水面が映されていない。この記録映画が特殊なのか、あるいは一般的なのか。当時の人たちの水辺に対する意識をもっと深めなければと、反省とともに解いていかなければならない重要なポイントであると確認できた。
撮影当時、隅田川を行き来する水上バス(乗合船)は『大正六年 東京見物』の映像にも出てくる。絵葉書にも度々登場する水上バス(乗合船)だが、当時欠かせない風景要素だったのだろう。わざわざ船が来る時間を待って撮影したと思われ、両国橋、両国国技館、水上バス(乗合船)が3点セットの意味を持つ構図となる。
絵葉書/両国橋、両国国技館、水上バス(乗合船)、3点セットの水辺風景
日本橋方面から来た自動車が両国橋を渡ると、中ほどから巨大なドームを冠した両国国技館が目の前の視界を占める。ランドマークとしても魅力を発する。辰野金吾・葛西萬司の設計で明治42(1909)年に竣工した両国国技館は、築後10年にも満たない真新しい姿で映される。賑わいの新名所として横綱の地位を得たかに思える。
【シリーズ】ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり
①地方にとっての東京新名所
②『大正六年 東京見物』無声映画だからこその面白さ
【シリーズ】「ブラタモリ的」東京街歩き
この記事を書いた人
岡本哲志都市建築研究所 主宰
岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。