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まちと住まいの空間 第31回 ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり②――『大正六年 東京見物』無声映画だからこその面白さ

岡本哲志岡本哲志

2020/12/16

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無声映画をサポートする弁士とフリップ

大正6(1917)年の『大正六年 東京見物』(放映時間26分・以下、東京見物)は無声映画である。このことは重要で、サイレントな映像を観る場合はそれを補う装置が必要となる。該当する映像の前にフリップが登場し、当時であれば弁士が映像に合わせて語る。

2018年秋から19年初春にかけ、東京国際フォーラム・国立映画アーカイブ主催の古い記録映画を鑑賞し解説する講演「月曜シネサロン&トーク」で11本の作品が4回に分けて上映された。いずれの回も私が講師として登壇したが、映画に合わせたピアノ伴奏が無声映画に臨場感を醸し、それが映像から様々なインスピレーションを引き出す効果につながり、すばらしい企画だった。

しかし、そうした試みが言葉で補う弁士の役割を充分に担えたかといえば、特に記録映画の場合は疑問符がつく。映像の具体的な内容を理解しようとすれば、視聴する側も映像内容の基礎知識が求められるからだ。場面によっては、より高い知識が必要となる。映し出される映像は物語の背景として風景が次々と展開しているわけではない。まして、現代に生きる私たちは、目の前に映る光景をほとんど実体験できていない。

それではということで、弁士を立てる考えが浮上した。

幸い、私が校長を務めることになった九段観光ビジネス専門学校で「フィルム&トーク」と称し、再び講演会を19年初夏から半年間で7回開くこととなった。そこでは12本の記録映画の上映を可能にしたが、弁士を呼ぶだけの予算もなく、私が映像に合わせ弁士の役割を演じて解説した。

素人の悲しさで、その時は弁士のように視聴者の気持ちをうまく乗せることができなかった。

記録映画は映像の解説が重要だが、解説の途中で容赦なく次々と新しい映像に移り変わる(記録映画の上映条件として、一時停止が不可)。自身の能力不足を実感したとき、解説の重要さとともに、音声がない欠落部分を弁士の立場で補うことが極めて難しいと分かった。

風景が物語の背景であれば、弁士の魅力的な語りよりも、ピアノ伴奏の方がより深みを増す。今回はその難しい部分を原稿に託そうとしている。

21枚のフリップが伝えようとした意味とは

そこで注目したのがフリップだ。

無声映画では、映像が出る前にフリップを登場させる。トーキーの時代には消えていくフリップと弁士が無声映画の映像をサポートした。今でいう映画のナレーターや登場人物の台詞の代役となる。ただし、記録映画となると、フリップの役回りは今も消えていない。

無声映画の映像を現在分析するうえでは、フリップに書かれた文字が大いに役立ち、サブの解説文も大変助けとなる。『東京見物』には全部で21枚のフリップが出てくる。そのフリップは、主に文字の回りを絵模様で飾る「凝ったもの」、「単に文字だけのもの」の2種類である。

凝ったフリップは13枚、文字だけが7枚。残りの1枚は特殊で、絵をバックに文字のタイトルが付けられている「大祭の靖国神社」(18番目)となっていた。

さらに想像を巡らすと、凝ったフリップの直後に登場する風景が、この作品の原型となる映像ではとの思いに至る。

13枚ある凝ったフリップの文字を列記すると、「東亰驛(東京駅)」(1番目)、「宮城及楠公銅像」(2番目)、「東宮御所」(9番目)、「青山御所」(10番目)、「乃木将軍邸」(11番目)、「明治神宮」(12番目)、「芝増上寺」(13番目)、「銀座通」(15番目)、「日本橋通」(16番目)、「須田町交差点及広瀬中佐銅像」(17番目)、「上野公園」(19番目)、「浅草観音及十二階」(20番目)、「両国橋」(21番目)となる。


図/『東京見物』の凝ったフリップに登場する撮影場所

これらの画像に絞ると、前半が天皇に関連する映像、後半が賑わう近代東京の映像と、2部構成で映画が進行する。

なぜはじめに東京駅の紹介からスタートしているのか

『東京見物』で最初(1番目)に登場するフリップは「東亰驛(東京駅)」。サブの解説文は「帝都の門戸騒然として三菱原に聳(そび)ゆ」と書かれている。どうも、東京駅の映像には2つの「玄関」としての意味が込められている。一つが「宮城に住まう天皇の全国に開かれた玄関」、いま一つが「路線で全国に結びつく近代東京を象徴する玄関」である。

天皇は宮城(現・皇居)から馬車で行幸道路(現・行幸通り)を抜けて東京駅に向かい、そこから全国へと行幸した。東京駅は天皇の行幸をスタートさせる象徴的な場であった。ただし、東京駅が完成した時、明治天皇はすでに崩御されている。

それでも、東京駅は明治天皇と結びつく。

大正3(1914)年竣工だが、着工が明治後期。外装は煉瓦で化粧され、明治を想起させる巨大建築である。何度も視聴していると、明治の巨星(明治天皇)を建築に映し込んでいるかに思えてくる。東京駅のシーンは、これから明治天皇へと展開する映画の流れをプロローグで暗示する。

では、東京駅が完成した年、丸の内の風景はどうだったのか。興味深い絵葉書がある。何もない野原に東京駅がこつ然と建ち、映像に映り込まれていない背後は更地だった。


絵葉書/内濠越しに見た東京駅

まさに、解説文と重なる。後に東京海上ビル、日本郵船ビル、丸ビルが加わるが、『東京見物』では東京駅の誕生をシンボリックにフォーカスする。それこそが重要で、視聴者を東京駅の限られた光景に集中させる狙いがあった。

天皇をイメージさせる宮城と銅像

東京駅の後、次(2番目)のフリップは「宮城及楠公銅像」となる。タイトルは「宮城」の文字が大きく強調された。サブの解説文として「君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわほとなりて 苔のむすまで」と国歌の前文が記載された。明治中期以降に変貌する丸の内の西側には、徳川将軍家が築き上げ、天皇が住まう宮城がある。時間を超越するかのように変化を止めている森と掘割、その広大な空地が東京都心に占める。


絵葉書/丸の内側から見た宮城(皇居)のパノラマ

天皇が住まう宮城は、東京の名所として外せない。ただ直接天皇の住まいを映せるわけではない。宮城を暗示させる定番として、名所絵葉書と同様に「二重橋」(二重橋は奥の橋で、一般に二重橋といっている手前の橋は「石橋」)を映す。


絵葉書/二重橋(石橋)

江戸時代は本丸に至る「大手門」が最も重要な御門だったが、明治に入ると西の丸が天皇の行事の場となる。宮中を訪れる人は二重橋を渡る(車の場合など、多くは坂下御門から)。しかし、一般の人が気軽に二重橋の先へは行けない。そこでだれでも行ける「二重橋前」が宮城を象徴化とする風景として見立てられた。

島倉千代子(1938〜2013年)が昭和32(1957)年に歌いヒットした「東京だョおっ母さん」。この歌に「ここが 二重橋 記念の写真を とりましょね」という歌詞がある。現在でも多くの人たちが記念写真におさまる。

昭和20年8月15日正午、玉音放送(天皇の肉声を玉音)で終戦を告げる昭和天皇のお言葉があり、頭(こうべ)を垂(た)れる人々の象徴的な場所として二重橋前があった。名所絵葉書も、後々まで宮城イコール二重橋(石橋)として風景を切り取る。二重橋濠に架かる石橋はいつしか二重橋と呼ばれるようになる。

二重橋とセットに宮城をイメージさせるシーンに、楠木正成の銅像がある。


絵葉書/楠木正成の銅像(現在の皇居東御苑)

軍事の天才との誉れ高い、南北時代に生きた楠木正成(生誕不明〜1336年)の銅像は、明治30(1897)年から現在の皇居外苑に置かれ続ける。後醍醐天皇に与し、後に朝廷との確執から戦いに敗れて自害する人生。どこか西郷隆盛と重なり、天皇と結びつくかたちで日本人の心を惹きつける。

明治から大正への転換点としての「東宮御所」

2番目の次にくる絵柄の入ったフリップは、9番目まで飛ぶ(3番から8番は文字だけのフリップ)。タイトルが「東宮御所」。サブの説明文は「佛(仏、フランス)國(国)王ルイ十四世の宮殿及各國の宮殿を参酌(参考)して御造営なりしもの洋風三層の御建築なり」と書いてある。次いで10番目が「青山御所」。サブの解説文が書かれていないが、文字の周囲を絵模様で飾る。

明治後期は、嘉仁親王(後の大正天皇)の東宮御所が旧紀州家抱屋敷跡(現・赤坂離宮)にあった。明治42(1909)年に片山東熊設計による壮麗な建築が広大な土地に完成する。


絵葉書/東宮御所(現在の赤坂離宮)

ただ、居住としての使い勝手が悪く、生活の場としてはほとんど使われなかった。青山御所は、裕仁親王(後の昭和天皇)が大正13(1924)年に結婚した後、東宮御所となる。『東京見物』が製作された時代は嘉仁親王が大正天皇、裕仁親王が皇太子の時代。ここでは、明治天皇の御世継ぎとなって天皇を継承した嘉仁親王、後に天皇を継承することになる孫の裕仁親王、この2人の御所が映像となった。ほとんど動きのない静止画である。映像として物足りなさがあるが、フリップの力の入れようから次ぎへの展開を充分示唆する内容だ。

あとから加えられた明治神宮とそのままの乃木大将邸

明治から大正への転換点は、明治天皇の崩御と乃木将軍の殉死である。この2つの出来事は『東京見物』において最も重視されたシーンとして、記録映画の中心に据えられた。

当時の人たちにとって、明治天皇と乃木将軍の死は、現代に生きる私たちの想像を遥かに超える衝撃的な事実だったろう。当然ながら、明治神宮も、乃木神社も、明治期の日本人のだれもが意識すらしていない新しい風景であった。大正6年の『東京見物』のフィルムには明治神宮が加わり、後に東京名所の定番的風景として不動の存在となる。

明治神宮は現在の東京都初詣ランキングのナンバーワンであり続ける。乃木将軍の名を冠した「乃木坂」は、乃木将軍の存在をあまり意識されていないにもかかわらず、若者文化のトレンドの一翼を担う。乃木神社は不思議なほど、パワースポットとしての輝きを今も失っていない。

ただし、乃木神社は『東京見物』に出てこない。神社の完成は関東大震災直後であった。そのために11番目のフリップは「乃木将軍邸」が登場する。


絵葉書/主を失った旧乃木邸(現在の乃木坂沿い)

サブの解説文には「赤坂新坂町にあり 素朴頑丈なる建物にて将軍の佛(仏)をそのままに表現せり」と。乃木将軍の生きざまを建物に投影した。その後、乃木神社は映像として追加されることなく、邸宅のみで完結する。

12番目の「明治神宮」では、サブの解説文に「建築は凡て流れ造りとし荘重を極む 本殿の大きさは正に日本一と稱(称)せられる」と記された。


絵葉書/明治神宮の本殿

明治神宮は、大正4(1915)年に地鎮祭が行なわれ、大正9(1920)年に創建。どのタイミングで明治神宮の撮影が行なわれたかは不明だ。だがフリップだけから判断すると、企画の段階で本殿の設計図ができており、『東京見物』には欠かせない映像として位置づけられたと考えられる。フリップではいかにも完成したかのような解説となる。

映像に出てくる神宮橋は大正9年に架けられた鉄筋コンクリート造石張。大鳥居も大正9年の造営である。大正6年ころにはなかった。明治神宮の映像は、丸ビルなど丸の内に建てられた近代建築と同様に、後で新たに挿入されたものであろう。ただ、大正6年の原型の映像がどのような風景だったのかと、いろいろ想像したくなる。ダミーとして入れられた、進みつつある建設時の映像を思い巡らすと興味が増す。

ちなみに、13番目の「芝増上寺」は、江戸時代天皇家を迎える江戸の表玄関として、接待の場であった。明治に入り、徳川将軍家は天皇家に江戸城を明け渡したが、江戸の都市構造をベースに東京が成立し続けていた。その点からも、芝増上寺近代以降の東京を代表する寺院である。

【シリーズ】ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり
①地方にとっての東京新名所
【シリーズ】「ブラタモリ的」東京街歩き

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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