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『鬼滅の刃』から考える鬼の正体――鬼は実在するのか?(1/2ページ)

正木 晃正木 晃

2020/11/18

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©︎paylessimages・123RF

日本的な思想から出てきた鬼滅の鬼たち

映画『鬼滅の刃』が大ヒットしている。

大ヒットの理由はいろいろあるが、この作品に登場する鬼たちが、はなはだ複雑な性格を秘めていて、人を食ってしまうという点では絶対的な悪でありながら、そうせざるをえなくなった事情が語られ、一方的に悪とされていないあたりが、共感を得ているらしい。この善と悪の境界がゆるいというか曖昧というか、とにかく善と悪を決定的な対立項とみなさない設定は、すこぶる日本的だ。セム系一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)が善と悪を峻別し、徹底的に対立させるのとは、対照的といっていい。

「鬼滅の刃」に登場する鬼たちは、どれも個性的だが、伝統的な鬼には特定の姿形があった。頭に角を生やして、とても恐ろしい形相をして、虎皮のパンツをはいて、大きな金棒を持っていて、すごく怖いというイメージである。

漢字の「鬼」は、「大きな丸い頭をして、足もとの定かでない亡霊」(藤堂明保『漢和大辞典』)を描いた象形文字からできた文字とされる。一説には、鬼という字の頭の部分は「ぼんやりと丸いかたまりのように見える亡霊」で、いわゆる人魂のことだともいう。

日本語では「鬼」と書いて「おに」と訓ませるが、「おに」という言葉は「おぬ=隠」からきているという。つまり、鬼とは「すがたかたちを隠している存在」だった。

この点では、日本語の「おに」と漢字の鬼がもつ意味はかなり重なる。というより、かなり重なる意味をもっていたからこそ、日本語の「おに」に漢字の「鬼」を当てたといったほうが正しい。

鬼のイメージが固定化したのは平安時代

やがて鬼は、姿形を現すようになる。頭に角が生えていて虎皮のパンツをはいている鬼が現れたのは、平安時代中期からあとの話で、中世の時代がその最盛期だった。

鬼に関する学問的な研究で有名な小松和彦(国際日本文化研究センター前所長)氏によると、日本の鬼には二種類ある。

一つは伝説や芸能などに出てきたり演じられたりする鬼で、いわば想像された鬼。もう一つは、ある特定の人々を指して鬼といったり、あるいは特定の人々がみずから鬼ないし鬼の子孫と名のったりした場合で、いわば歴史的に実在した鬼である。

実際には、この二種類の鬼は互いに深くかかわりあって、日本の鬼のイメージをかたちづくってきた。ただ単に想像されただけの存在なら、そんなに怖くない。気の迷いとか臆病風とか、とにかく心のもちようの問題で片づけられる。

しかし、想像されたものの背後に、なんらかの実在するものがあるとなると、そうはいかなくなる。心をいかに強くもとうと、実在するものは実在するのだ。仮に、その実在の割合がほんの僅かだけだとしても、そのほんの僅かな実在が確認されたとたんに、想像されるものを、想像の領域から実在の領域へ一挙に運んでしまう。

では、実在する鬼とは、いったいどんな人々だったのだろうか。どんな人々が、鬼と呼ばれたのだろうか。あるいは、どんな人々が、鬼を名のったのだろうか。

じつは、鬼と呼ばれた人々には、そして鬼を名のった人々にも、ある共通する性格があった。それは、ふつうの政治や経済の仕組みに従わない、もしくはそこから逃げ出した人々だったという点だ。実在した鬼は、学問的な表現をつかうなら、中央の体制や秩序から阻害されたり排除されたりした人々、あるいは離脱した人々だった。古代の用語でいえば、彼らは朝廷などの権威に「まつろわぬ」、つまり支配されない人々だった。

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この記事を書いた人

宗教学者

1953年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。専門は宗教学(日本・チベット密教)。特に修行における心身変容や図像表現を研究。主著に『お坊さんのための「仏教入門」』『あなたの知らない「仏教」入門』『現代日本語訳 法華経』『現代日本語訳 日蓮の立正安国論』『再興! 日本仏教』『カラーリング・マンダラ』『現代日本語訳空海の秘蔵宝鑰』(いずれも春秋社)、『密教』(講談社)、『マンダラとは何か』(NHK出版)など多数。

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