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今川家――桶狭間の負けばかりが注目されるが義元の本当の実力と幕末までの生き残り術(1/2ページ)

菊地浩之菊地浩之

2020/07/14

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今川義元の浮世絵 ©︎Utagawa Kuniyoshi-Ukiyo-e.org and the British Museum.

名門・今川家のはじまり

今川家は足利将軍家の支流で、鎌倉時代に足利泰氏(やすうじ)の庶兄・吉良長氏(きら ながうじ)が三河国幡豆(はず)郡吉良(愛知県西尾市吉良町)に分家して吉良を名乗り、その次男・今川国氏(くにうじ)が吉良の北側にあたる三河国幡豆郡今川(愛知県西尾市今川町)に隠棲して、その子孫が今川を名乗った。

国氏の孫・今川範国(のりくに)の代に建武の新政が興った。今川家は足利尊氏の一門ということで、合戦に次ぐ合戦で多大な犠牲を払う一方、軍功を上げてドンドン出世した。

範国はまず遠江国(静岡県西部、浜松市の周辺)守護となり、次いで駿河国(静岡県東部、静岡市の周辺)守護に任じられた。範国の子・今川範氏、貞世(さだよ。号・了俊[りょうしゅん])兄弟は武勇に優れ、特に今川了俊は九州探題(たんだい)として九州の南朝勢力の制圧に多大な貢献があった。範氏は了俊の器量を認め、家督を譲ろうとしたが、了俊はこれを辞し、結局、範氏の子・今川泰範が家督を継いだ。

応仁の乱後は家督争いで混乱が続く

応仁・文明の乱の頃の当主は、泰範の曾孫・今川義忠である。

当時、遠江守護職は越前・尾張の守護職、斯波(しば)家の手に渡っていた。斯波義廉(よしかど)が西軍(山名宗全)、今川義忠は東軍(細川勝元)に属し、義忠は西軍の斯波家を牽制し、ひいては遠江の守護職奪還に向けて遠江に攻め込んだ。ところが、その帰途、斯波家と通じていた遠江国衆の残党の反撃に遭い、あっけなく討ち死にしてしまうのである。

義忠の遺児・龍王丸はまだ幼児(一説に6歳)だったため、義忠の従兄弟・小鹿範満(おしか のりみつ)との間で家督相続争いが起きてしまう。悪いことに、範満の母が関東管領・上杉家の出身だったため、上杉家が介入してきて話がさらに面倒になった。折衷案を取って、龍王丸が成人するまで小鹿範満が家督を代行することになったが、龍王丸が成人しても範満は家督を譲ろうとしなかった。そこで、龍王丸の母方の叔父・伊勢新九郎長氏(ながうじ。号・早雲庵宗瑞[そううんあん そうずい]。一般には北条早雲)が駿河に下って範満を討ち果たし、龍王丸が家督を継いで今川氏親(うじちか)と名乗った。氏親は亡父の遺志をくんで遠江に攻め入り、遠江国を確保することに成功した。

氏親の死後、長男の今川氏輝(うじてる)が14歳で家督を継いだが、その10年後、わずか24歳で死去してしまう。死因は明らかでない。しかも同日に次弟・今川彦五郎が死去するという不自然さであった。そこで、僧籍に入っていた梅岳承芳(ばいがく しょうほう)が家督を相続する流れになったが、庶兄の玄広恵探(げんこう えたん)がこれを不満として外祖父の福島(くしま)氏と花倉城に立て籠もって反乱を起こした(花倉の乱)。ところが、承芳の母は正室の寿桂尼(じゅけいに)で、大多数の今川家臣の支持を得ていたから、ほどなく鎮圧され、承芳が還俗して今川義元を名乗った。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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