高齢化、介護問題もなんのその!? “親世帯と楽しむ週末田舎暮らし”という新しいカタチ
馬場未織
2017/06/15
子育て期を終えて見えてきたものとは?
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「子育てを自然のなかで」という思いから始めた、わたしたち家族の二地域居住。10年以上経ち、家族の状況もだいぶ変化してきています。
そう、子育て期というものは、渦中にいるときは永遠のように感じますが、実はあっという間に過ぎゆきます。そして、子育て期を抜け出すと徐々に見えてくるのが、親たちの介護です。
介護とまでいかなくても、以前よりも心許ない状態になった親について、少しずつ心配になっていく時期に突入していくのですね(うちはいまココ)。
周りの40〜50代の友人の間でも、「子どもの世話を頼めなくなった」「がんばって月に数度は実家に戻る時間を確保している」「手続きなど複雑な事務作業はもう無理みたいだから、かわりにしてあげないと」というように、親にお世話になっている状態から、お世話をする状態へとシフトしていくケースが多くみられます。
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移住せずに二地域居住をしばらく続ける理由のひとつ
これまでは、自分と自分の家族の予定を四方睨みつつ暮らしをつくっていて、それだけでもけっこうなボリュームだなと感じているところに、「親」という新たな気がかりが増えるわけです。そして、同じ“お世話をする”といっても、子育てとは勝手の違う日常のつくり方があります。
よく、「移住しないんですか?」という質問をされ、「二地域居住をしばらく続けるつもりです」と答えていますが、理由のひとつとして、近い将来に親の介護を引き受けるだろうという事情があります。
誰がどんな時期にどんな状況になるのかわかりませんが、可能な限り「大丈夫だよ、何かあったらすぐ行くよ」という言葉がかけられるようにしておきたいところ。子育てとは趣きが異なりますが、この半分腰の浮いた状態をキープする感覚だけはちょっと似ているのかな、なんて思っています。
わたしの両親はディープな都会派なので…
わたしの場合は、現在、夫と自分の両親が4人健在で、これからの人生設計には高齢の親たちとどう寄り添っていくかという大きな課題が内在されています。
もし自分の親が、自然のある暮らしを好む人たちだったら、彼らを巻き込みながらの二地域居住を考えていたかもしません。ともに畑をする時間をつくったり、入れ替わりで家を使うプランを立てたり。
ところが、わが家の場合は、残念ながら両親ともディープな都会派で、「最後に住むところは銀座の鳩居堂あたりがいい」と冗談を飛ばすような人たちであるため、お客として、たまに南房総の家に呼ぶくらいのことしかしてきませんでした。
ただ、ひとつ思い出すのは、以前、父が南房総を訪れたときに、デッキに座り込んで遠くをずっと眺めていた姿です。何を考えていたかわかりませんが、興味をほかにうつすこともなく、低い山の連なるのどかな景色をゆっくりと堪能しているようでした。
都会派かもしれないけれど、もっと前に、もっと積極的にわたしが働きかけていたら、田舎のある人生をすこしインサートできたのかなと、振り返ってしまいます。
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親世帯、子世帯が関わりながら二地域居住をしているケース
さて、わたしの友人で、実際に親世帯、子世帯が関わりを持ちながら二地域居住をしている人たちがいます。動機も暮らし方もそれぞれですが、深さと広がりを併せ持つ彼らのライフスタイルに心を動かされます。
ここで、3人の例をご紹介します。
親が二地域居住を始め、自分の生活にも田舎暮らしが流入してきた女性Mさん
両親が「平日は横浜、週末は富津」という二地域居住を始め、Mさんは、その野良仕事を手伝う形で自身も田舎に通うようになっています。
彼女の母親は3人娘を育て上げた後、自宅マンションのベランダを埋め尽くしていたプランターでは満足せず、「地植えで野菜が育てたい!」という農作熱に突き動かされ、両親そろって3年前から二地域居住を始ました。
予算や土地の条件に合う物件を見つけるのに膨大な時間がかかりましたが、結果的には、子や孫も車が停められる広々とした敷地に、デッキのある古民家が建つ物件を見つけることができた次第。ここを『おかん帝国』と呼び、折りに触れて親族で集う状態は、まさに3世代二地域居住といった風情です。
Mさんはエクステリア・ガーデンデザイナー。その職能がだいぶ拡大解釈されて、“電柵を張りたい”“メッシュ筋フェンスをつけたい”“ネズミが出る穴をふさぎたい”“波板屋根を張り替えたい”など、母親から要請されることもしばしば。
いくら親孝行したいといってもあまりに大変だ! とぶつかることや、慣れない作業にヘトヘトになることもあったそうです。
ところが、彼女のDIYスキルは時を重ねるごとにメキメキと上達し、同時に心の余裕も生まれるようになってきました。彼女がしばしばSNSで投稿する記事には、田舎の季節の風情、畑や野山の恵み、保存食づくりやひと手間かけた山菜料理、両親や姉家族との時間など、おかん帝国での豊かなできごとがつづられます。
また、家屋改修の参考になれば…と南房総DIYワークショップに参加したことがきっかけで仲間との交流が生まれ、「みんなも頑張っているよね、わたしもがんばろう」と、より前向きな心持ちになったとのこと。仕事でも、クライアントにそれまで以上にふくらみを持った提案をしたいと考えるようになるなど心境の変化も生まれてきました。
「いつまで両親がこの暮らし方を続けられるか、体力や運転能力は大丈夫か、と将来への心配はあります。交通、買い物、医療など生活環境の不安さえなければ、移住したほうが健康的な老後が送れるはずなんですけれどね。わたしも、もっと滞在時間を長くしても仕事ができるような形態を模索しようかな、と」。
当初は親の無茶振りに腰が引けていたMさんですが、いつの間にか、積極的に田舎暮らしに関わる未来を考え始めています。
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親の介護をきっかけに、Uターン二地域居住をはじめた男性Yさん
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十数年前から、両親の面倒を見るために実家に通う男性Yさん。東京に在住・在勤ですが、週末はほぼ毎週、両親のいる南房総の実家へ通っています。
長期入院中の母親を看病し、また高齢でひとり暮らしとなった父親を見ながら、農地の世話や集落の役回りの担当などもこなすマルチタスク状態。
「馬場さんも忙しいよね、わたしも忙しくてね!」と声をかけあうこともしばしばです。
以前は、この一連のマルチタスクをこなすのに無我夢中で、何かを楽しむゆとりなど持てずにいたYさん。平日も仕事で忙しいのですから、息つく暇がないわけです。
ところが近年、移住や二地域居住をする友人とのつながりが増えるなかで、「自分のこの田舎通いも、言ってみれば“二地域居住”なんだな」と気がついたといいます。
忙しさが減ることはありませんが、合間を縫って友人らと過ごす時間が持てることで、この田舎通いが積極的な楽しみへと変化し、価値が転換されたわけです。
田舎暮らしを始めて間もない人たちは、野良仕事から大工仕事までプロ並みの技とセンスを持つYさんに助けてもらうことも。頼られながら、教えながら、地元との多様な縁を深めていきます。
「近い将来、南房総にUターンすることを考えると、毎週帰ることで友人知人が増えたことは大きなメリットだったかもね」と振り返るYさん。若者が定住できるような仕事をつくるなどして、里山環境に賑わいを取り戻していければと、地域と自分の将来を重ねつつ、ライフプランを思い描いています。
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家族の介護移住と、ご自身の二地域居住を両立させた男性Sさん
Sさん家族が館山に居を移したのは、4年ほど前。Sさん自身は、仕事のある東京との二地域居住をしています。
以前より高次脳機能障害のある義父は、ADL(日常生活動作)が低下しており、また、東京でひとり介護を担っていた義母は、自分の介護力の低下を感じていました。そんななか、Sさん家族の移住から1年ほど経った頃、ママ友のツテで「南房総市白浜に、『小規模多機能施設ろくじろう』という理想的な介護施設がある」と情報を得たそうです。
『ろくじろう』は、利用者の日々の細やかな希望に沿って、泊まったり通所したりと自由に利用できるのが特徴で、最期まで利用者とその家族に寄り添ってケアする方針を掲げています。
東京での終末医療の形に疑問を感じていた義母は、介護移住をしよう、と決めることに。“終末は大好きな娘家族と生活したい”という思いや、“娘家族の慣れない移住生活を助けたい”という思いを重ねての決断でもありました。
義母は、以前からSさん家族の移住を積極的に支援していました。「みんな一緒に館山で暮らす日がいつか来るだろう」という将来像を家族全体で共有し、とはいえ「実現は数年後だろうなあ…」と気長に構えていたそうです。
ところが、行政の事情から迅速な移住が必須とわかり、受入れ準備を整える暇もなく義父母はSさん宅に引っ越してくることになり、バタバタと同居・介護生活が始まりました。
思うだけなのと、やってみるのとでは、やはり大きな隔たりがあるものです。
義母の負担を減らそうと移住・施設利用の道を選んだはずが、実際は困難の連続でした。
完全バリアフリーのマンションから“部屋から部屋への移動も外に出る・風呂トイレは離れ”というつくりのSさん宅への住み替えは、むしろ介護の不便を倍増させることに(介護状態でさえなければ素敵に暮らせる家なのです!)。
呼び寄せたSさん自身も、住環境の整備が進まないなか、親世帯と子世帯の生活リズムの不調和や、交通弱者となった義母のストレスなど、抱える課題は少なくなかったといいます。「義母が倒れたらどうしよう」というのが、もっとも大きな不安でした。
地元病院での1カ月半の入院後、自宅へ連れ戻した義父は、今年1月に亡くなりました。家族全員が「この家で看取りたい」と思えたのだそうです。お葬式も、この家から出すことができました。葛藤のある介護生活だったとはいえ、このような暮らし方でよかったのだと振り返ることのできるSさん家族。
義母は、家族や『ろくじろう』の仲間たちに支えられたこと、館山の家を取り囲む自然が動けなくなった夫を癒してくれたことに、深く心を打たれていました。
「いまでは、館山の暮らしを心ゆくまで満喫し、1週間おきに館山と東京を行き来する僕の二地域居住を応援してくれています」。
ノルマやタスクが深い満足に変わっていくことも
いかがでしょうか。
二地域居住、移住、Uターン、介護、仕事、将来設計、といったばらばらの課題を重ねて解決している彼らのライフスタイルをご紹介しました。
積極的につくる形だけが人生ではありません。導入は“ノルマ”だったり“タスク”だったりすることが、いつからか楽しみや喜び、深い満足へと変わっていくこともあります。
親の高齢化、介護、という問題に直面すると、どうしても心のこわばりが出てくるものです。また、介護の苦労はふんわりと乗り越えられるような性質のものではないとも思います。
でも、ひょっとしたら、年老いた親との関わりに二地域居住を織り交ぜていくなかで、日々の安らぎをえたり、人や自然とのつながりをもった環境で生き抜くことができたりと、介護する側もされる側も閉塞しがちな日常に風穴を開けることができるかもしれません。
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この記事を書いた人
NPO法人南房総リパブリック理事長
1973年、東京都生まれ。1996年、日本女子大学卒業、1998年、同大学大学院修了後、千葉学建築計画事務所勤務を経て建築ライターへ。2014年、株式会社ウィードシード設立。 プライベートでは2007年より家族5人とネコ2匹、その他その時に飼う生きものを連れて「平日は東京で暮らし、週末は千葉県南房総市の里山で暮らす」という二地域居住を実践。東京と南房総を通算約250往復以上する暮らしのなかで、里山での子育てや里山環境の保全・活用、都市農村交流などを考えるようになり、2011年に農家や建築家、教育関係者、造園家、ウェブデザイナー、市役所公務員らと共に任意団体「南房総リパブリック」を設立し、2012年に法人化。現在はNPO法人南房総リパブリック理事長を務める。 メンバーと共に、親と子が一緒になって里山で自然体験学習をする「里山学校」、里山環境でヒト・コト・モノをつなげる拠点「三芳つくるハウス」の運営、南房総市の空き家調査などを手掛ける。 著書に『週末は田舎暮らし ~ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記~』(ダイヤモンド社)、『建築女子が聞く 住まいの金融と税制』(共著・学芸出版社)など。