週末田舎暮らしで学んだ、自分から納得して行動したくなるものの言い方・伝え方
馬場未織
2017/04/20
「ねばならない!」が湧き上がってきてしまう
実はわたしには、過去にこんな反省があります。
二地域居住を始めて4年ほど経ち、地域の課題がじわじわ見えてきたあたりで、何かこの土地に貢献できないかとNPO法人を始めました。その原動力になったのは、地域へ感謝する気持ちです。
自分は日々、ぞっとするほど生えてくる雑草を刈りまくる週末を送っていましたし、自分がそうして体を動かすことによって「ああ、この土地の美しさは、住んでいる人たちが骨惜しみせず田畑や野山に手を入れてきたから保たれているんだな」と、地域への感謝の気持ちがわきあがってきました。
と、ここまではいいとして。
そのあとどうなったかというと、「この美しい里山を、わたしたちが守らねばならない!」という、ちょっとこわばった気持ちになっていったのです。誰にも頼まれていないのに、里山責任者みたいな気分になってしまって。
で、その大事なものを守るためには、みんなで草刈りをしなければならない! 楽しむだけじゃだめだめ、維持管理を手がけてこそ未来があるのだ! 未来に残す責任はわたしたちにあるのだーーーー!!と、強く思うようになりました。
もちろんその背景には、こどもたちと共に里山環境の自然を存分に楽しみ尽くしていった数年間の濃い経験があります。だからこそ芽生えた愛着と責任感なのですが、バーンと前に出てしまうのは、「維持管理しなければならない!」の気持ちばかり。
「ねばらならい」思考は言葉にしなくても伝わってしまう
いや、その思いの方向性はいまでも変わりませんし、間違っているわけではないと思います。
当時わたしが苦しかったのは、こんな言い方したらきっと誰の心にも届くまいとわかりつつ、どうしても「ねばならない!」的な気持ちになってしまうということでした。子どもに「勉強しなさい!」を思わず言ってしまう母親と同じです。そんなことをしても子どもの学習意欲を削ぐだけなのに。そこには戦略がなく、あるのはストレートな想いだけ。
そして自覚した通り、その強硬な想いは空回りしていくのでした。
5年ほど前に行なったNPO法人の設立記念パーティーで、「里山の未来の担い手をつくりたい」といった趣旨のプレゼンテーションをしたときのことを、いまでも覚えています。
理事長として話をしながら参加者の反応を見ると、会場全体がうっすらとした賛同だけに染まる空気に変わり、ほかの手応えがありませんでした。同意しない、という意見もないけれど、「一緒にやろう!」という声もなし。「がんばってね」と誰もが遠巻きに見守るスタンスです。これは伝え方を失敗したなと、瞬時に理解しました。
NPOとして実績がまだ少ない時代の、苦い苦い経験です。
解決に向けて取り組みたい課題があり、賛同者を増やしたいと考えたとき、それをどのような形で提示していくかというのはとても大事です。いや、提示の仕方といううわべの問題ではありません。たとえ言葉に表さなくても、「ねばならない!」というしかめっつら思考は伝わってしまうんですよね、不思議なことに。
押し付けられないと、自発性が生まれる
もうひとつ。
わたしたちが南房総での暮らしを始めた頃から、草刈りの指導や手伝いをしてくださっていた地元の方がいて、彼のおかげでわたしは畑仕事が好きになった、というエピソードがあります。
週末田舎暮らしをしたいと思ったきっかけが、「子どもと自然のある暮らしがしたい」というものだったため、特に畑で作物を育ててみたいと感じたことのなかったわたし。
というか、そもそもひねくれたところがあり「家庭菜園の野菜が美味しいなんて自己満足でしょ」と冷ややかな想いさえあったのです。ゆえに、家の前に広がる農地に対してはじめは何もアクションを起こしませんでした。
ある日、その方が手伝いに来てくれたとき「ジャガイモでも育ててみっかね」と、特に私を誘わず、淡々と畝を立て、自分の家に余っていたというジャガイモの種イモを置いていき、小さな畑をつくっていきました。
さすがに申し訳ないのでちょっと手伝ってみたりして(自分のうちなのに手伝うというのも変ですが)、へー畑か、なんて思っていたら、翌週行くと小さな芽がテンテンテンと出ていたのです。それを見た途端、「うわあ、かわいらしい!」と嬉しくなってしまい、畑仕事というのは喜びそのものなんだなと知ることになりました。
もしあのとき、「やらなきゃダメ」と言われていたら?
もしあのとき、「畑くらいやらなきゃダメでしょ」といった言われ方をしていたら、「なによ、自由にやらせてよ」と反発してしまっていたかもしれません(ま、いずれはやっていたと思いますが。笑)。
お蔭さまでいまは、自分でつくった野菜をその場で食べるとどれほど美味しいものかわかり、理屈だけで考えて「自己満足でしょ」と嗤っていた自分の不遜さや経験の足らなさを振り返ることになりました。
さらに、うちの集落の場合は、共同作業へのお誘いも決して「しなければならない」と言われません。「出られるようであれば出てもらえたら」というトーンです。
結果、上からの押し付けや圧力を感じないことで余分なストレスがなく、すんなりと参加をすることになり、その場での地元のみなさんとの作業は楽しいものだとわかってきました。
さらに、水路の泥を掻き出したり、道端の草を一斉に刈ったりという作業のなかから「やっぱりこれは地域のために必要な作業だな」という理解が深く根付き、いまでは万障繰り合わせて出るようになっています。
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無関心、無気力を誘う「ねばならない」
翻って、世の中にあるさまざまな呼びかけを意識してみると、この「ねばならない」攻撃は、危機感を仰ぐより先に、人の意欲を削ぐ方向で影響することが多いです。特に、社会的に良きことをしようと思っている場合に見られます。
「森林は整備しなければならない」
「耕作放棄地を増やしてはならない」
「空き家は活用しなければならない」
「地域貢献をしなければならない」
いや、すべて正論でしょう(以前のわたしはコレにあたりますね。笑)。
でも、日々忙しくしている自分の暮らしがあり、やるべきことの優先順位があるなかで、この呼びかけで果して実際に「そうだな、森林は整備しなければな」と動き出す人がどれほどいるでしょうか。
きっと、森林を整備しないと自分の暮らしがたちゆかなくなる危機感をリアルに持っている環境の人だけではないでしょうか。
土地への関わり方は徐々に深まっていくもの
同じように、地域コミュニティのルールも重ったるく叫ばれます(残念ながら、わたし自身はこうした経験が少ないのですが)。
「この作業には出なきゃならない」
「この祭りにも出なきゃならない」
「この会合にも出なきゃならない」
地域ルールは大事だと思います。なかば強制的にでも、こうしたことを「せーの!」でやるからこそうまく維持されるコミュニティがあることも大いに理解できます。
でも、移住してきたばかりの人、二地域居住を始めたばかりの人が、のっけからこうした「ねばならない」攻撃をされたら、彼らはこの土地を好きになるでしょうか。愛着を持つ前の土地に対して、「責任を果たすために引っ越してきたんだものな」と、思うでしょうか。
土地に対する関わり方の深度には、段階と順序があります。
(1)楽しむ
(2)愛着を持つ
(3)責任感が生まれる
(4)行動する
基本的にはこれを上からひとつずつクリアしていくことで、次の段階に到達するようになります。
その段階移行をすっ飛ばし、(4)の段階にいる人がまだ(1)の段階にいる人に対して結果だけを求めようとすると、(1)の人は土地への愛着を育てる気力が一気に失せ、めんどくさいしやりたくない、という思いだけが残ります。
移住経験者などの「田舎は窮屈」「ルールばっかりで」という話をよく見ると、(1)~(3)がないのに(4)を強要されたことでそうなったケースが多い気がします。
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合理性を持つこと、納得して取り組むこと
「ずっと住んでいるから」「ここに住まないと働けないから」と、その土地以外の選択肢を持たない人だけによって地域が構成されていた時代には、(1)~(3)などという悠長なものはすっ飛ばして「ねばならない」の理屈だけで仕切ってよかったのかもしれません。もちろん快く思わない個人はいたかもしれません。ですが、そうした個人の思いが地域に大きな影響を与えることはなかったからです。
しかし現在は、移住・定住・二地域居住など外からの流入人口を増やせるかどうかが、地域の存亡と直結している部分があります。人口減=税収減は、避けようのない深刻な課題ですから。
そう考えると、住みたいと思える地域をつくることに対して、真剣に取り組む必要性が見えてきます。とりわけ地域運営に関しては、「主体的に暮らせる地域かどうか」というのは、大きなポイントになります。
やらされているからやる、ではなく、したいと思ってできているか。
うるさいからしたがうのではなく、納得して取り組むことができているか。
納得して暮らせる気持ちよさには、地域の外の人間を巻き込んでいくポジティブな力があります。
地域には自分の頭で考え、行動できる人間が必要
一方で、ひょっとしたら、こうしたまっさらな方法には、伝統や風習を守る体制に切り込むようなリスクを感じる人もいるかもしれません。「上にならってきたから続いてきたんだ」といった類のこともあるでしょう。
でも基本的には、一人ひとりが自分の頭で考え、行動できる人間が育くまれている地域には未来がつくられます。そりゃそうですよね。地域、とは、個人の意思の寄せ集めなのですから。
そして、“上”にならうだけで「無考え」を決め込んでいる地域は、“上”の瓦解とともに足場を失います。何となく生ききることのむずかしい、厳しい時代です。
自分の頭で理解して納得してから行動するのは、とても大事なことです。そのプロセスを経るからこそ、言葉は行動に移され、倫理が守られ、不条理の芽は早い段階で摘むことができる。そう考えると、押し付けられた「ねばならない」は、地域を滅ぼす思考停止の源になりかねない、とも言えそうです。
また、「ねばならない」を発する人に悪意などなく、むしろ善意に満ちていたとしても、与える効果は逆向きなのが辛いところ。そのことに気づくには、自分自身を相対視するしかないわけです。
……いやはや。
個人の成長こそが、地域づくりなのだと言えますね。改めて。
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この記事を書いた人
NPO法人南房総リパブリック理事長
1973年、東京都生まれ。1996年、日本女子大学卒業、1998年、同大学大学院修了後、千葉学建築計画事務所勤務を経て建築ライターへ。2014年、株式会社ウィードシード設立。 プライベートでは2007年より家族5人とネコ2匹、その他その時に飼う生きものを連れて「平日は東京で暮らし、週末は千葉県南房総市の里山で暮らす」という二地域居住を実践。東京と南房総を通算約250往復以上する暮らしのなかで、里山での子育てや里山環境の保全・活用、都市農村交流などを考えるようになり、2011年に農家や建築家、教育関係者、造園家、ウェブデザイナー、市役所公務員らと共に任意団体「南房総リパブリック」を設立し、2012年に法人化。現在はNPO法人南房総リパブリック理事長を務める。 メンバーと共に、親と子が一緒になって里山で自然体験学習をする「里山学校」、里山環境でヒト・コト・モノをつなげる拠点「三芳つくるハウス」の運営、南房総市の空き家調査などを手掛ける。 著書に『週末は田舎暮らし ~ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記~』(ダイヤモンド社)、『建築女子が聞く 住まいの金融と税制』(共著・学芸出版社)など。