SNSは人のコミュ力、脳みそを低下させ、退化させるこれだけの理由
遠山 高史
2021/02/25
写真/「Clubhouse」
なぜ、SNSをやっている若い人ほど心療内科にやってくるか?
「Clubhouse」というアプリケーションが流行っていると聞いた。
私にも知人から、やりませんか?と誘いが来た。なんでも、アプリケーションをインストールするだけではなくて、誰かに招待されないと、使えないらしい。音声に特化したサービスで、Twitterや、Instagramのような、文字や画像ではなく、会話を聞いたり、参加したり……と、いう説明を受けたが、残念ながら、私のスマートフォンではそもそも使えなかったし、使いこなせる自信もなかったので、辞退させていただいた。
「なんでこんなものが流行っているのか」と聞くと、「皆閉じ込められているものだから、会話に飢えているからじゃないですかね?」というのが返答だった。
言語さえ理解できれば、遠い異国の著名人と直接会話することも可能だとか。自粛生活が起爆剤となって、爆発的な人気だという。文字通り、いつでもどこでも、誰とでも交流ができるとは、すさまじい時代になったと思う。
だが、新しい物に苦言を呈するのは、年長者の作法というもので、私もそれに従おうと思う。読者諸氏は、私がこれから、あれこれと文句を言うのを少々我慢していただきたい。
この「Clubhouse」とやらに限らず、ネットワークを介したコミュニケーションが、多くの人間に指示される本当の理由は「楽」であるからではないだろうかと思う。人はどうしても「楽」なほうに流されやすい。脳みそは「楽」が大好きだ。
だが、本来、人との交流は「面倒くさい」もセットになっていたはずで、会うためには、移動せねばならず、そのためには、寝床から這い出して、身だしなみを整えなければならない。必要があれば、手土産を用意し、会えば会ったで、近しい関係であっても人間だから、気遣いが要求されるのだ。
最近のSNSは、こういった面倒くさい壁を取り除いてしまったのだ。インターネットとモバイルによって、人は恐ろしく「楽」に他人と繋がれるようになった。
それなのに、私の外来には、コミュニケーションに悩む人がしょっちゅうやってくる。
「上司が自分を嫌っている」「同僚と上手く会話ができず、仕事に支障がでている」「学友たちの間に溶け込めない」等々、枚挙にいとまがない。多くは、若い世代というのも気になるところだ。
原因を一つに絞ることはできないが、氾濫するSNSが、従来、実社会のコミュニケーションに要求されていた対人スキルに影響を落としている可能性は大いにある。
ネットワークを利用すれば、不特定多数の人間と、さしたる労力なくして交流できる。
スマートフォンやPCのモニタの向こうの顔の見えない友人達は、仕事のミスを鬼のように怒鳴りつけたりはしないし、母親のように口うるさく、日々の行動に干渉してはこない。そして、仮に、誰か見知らぬ無礼者があなたを罵倒したとしても、その相手を自分の領域から締め出すことも容易にできる。
こんなものを手に入れてしまったら、わざわざ煩わしい現実に、真面目に取り組みたいとは思えなくなるのが自然である。
社会変化について行けない人間の脳みそ
多くのSNSの利用者は、ネットワークの恩恵により、便利になり、快適になったと思い、孤独や不安を埋めることができるようになったと思っているだろう。
だが、その裏で、現実世界との乖離(かいり)が加速し、本来密に交流すべき近しい人々との関係性に不具合を起こしていることもまた現実なのだ。
事実、SNSを長時間使用している人の幸福度は、思いのほか低く、孤独感は払拭できていないという研究結果もある。
人間の脳は、有史以来、ほとんど変化していないと言われている。そして、今の私たちの手元にある、スマートフォンが現れたのは、ほんの十年ほど前のことである。人類史一万年の長きにわたり、我々はせいぜい100人程度のコミュニティの中で、手足を使い、五感を使って、関係性を築いてきたのだが、わずか十年で、時空を飛び越えて見知らぬ誰かと通信できてしまうまでになった。一万年と十年を比較すれば、現在の我々の状況の変化がいかに劇的に起こっているか、理解していただけるかと思う。
要するに、本来あるべき環境から、たった十年で変化を強要されている状況なのだ。適応できずに、なにがしかの不具合を起こす人が出てくるというのは、当然と言えば当然のことかもしれない。
人間は身体の全てを使って、体験し、学習する。
筋トレをイメージしてほしい。負荷をかけたところは発達し、トレーニングを怠れば、衰える。脳にも同じ現象が起こる。本来必要であったはずのプロセスを飛び越えることは、快適で便利なようにうつるが、その裏で私たちは必ず何かを失っているはずなのだ。
かの有名なアップルの創設者、スティーブ・ジョブズ氏は生前、子供達がある一定の年齢に達するまで、厳格にモニタから遠ざけていたという話がある。開発者であるからこそ、自身の製品が持つ、麻薬にも似た毒性を知っていたのではないだろうか。
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この記事を書いた人
精神科医
1946年、新潟県生まれ。千葉大学医学部卒業。精神医療の現場に立ち会う医師の経験をもと雑誌などで執筆活動を行っている。著書に『素朴に生きる人が残る』(大和書房)、『医者がすすめる不養生』(新潮社)などがある。