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鍋島家――鍋島猫騒動はやっかみ? 薩摩と並ぶ財力と軍事力で雄藩の一角に

菊地浩之菊地浩之

2021/05/08

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鍋島直茂像/三浦子サン筆 Public domain, via Wikimedia Commons

主家・龍造寺家の家臣から当主へ

戦国時代、九州は龍造寺(りゅうぞうじ)家、大友家、島津家という戦国大名によって三分されていた。ところが、龍造寺家を一代で興隆させた当主・龍造寺隆信が、1584(天正12)年に沖田畷(なわて)の合戦で、あっけなく討ち死にしてしまう。

龍造寺家を破った薩摩の島津家が九州を席巻し、九州制覇の大手をかけた。危機を感じた大友家が羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に助力を請い、1587(天正15)年に秀吉は25万の大軍を率いて九州を攻略。龍造寺家も豊臣政権下に組み込まれた。ところが、隆信の嫡子・龍造寺政家(1556~1607)は病弱で暗愚だった。

秀吉から所領を安堵されたので、龍造寺家は軍役などで奉公しなければならないのだが、当主・政家は病弱で奉公することができず、名代を立てるにも子の龍造寺高房(1586~1607)はわずか3歳の幼児だった。

そこで、政家の祖母・慶誾(けいぎん)は、家老の鍋島直茂(なべしま なおしげ)に龍造寺姓を与え、高房を直茂の養子とした。さらに、直茂の嫡子・鍋島勝茂(かつしげ、1580~1657)を龍造寺一族の養子とした。これにより、龍造寺家に組み込まれた鍋島直茂、勝茂父子が、政家に代わって豊臣家に対する奉公体制を構築したのだ。

秀吉は龍造寺家の当主が政家であることを認めつつも、実態としては鍋島直茂が龍造寺家を指揮していることを把握しており、ときとして露骨に鍋島家を引き立てた。こうして徐々に龍造寺家の実質的な当主が鍋島直茂であるとの認識が広がっていった。

鍋島猫騒動の背景にあったものとは?

1607(慶長12)年3月、龍造寺高房は前途を憂いて江戸屋敷で自殺を図り、未遂に終わったものの、9月に死亡した。嫡子はなかった。翌月には父・政家が死去し、龍造寺の本家は断絶した。

江戸幕府は龍造寺一門を召集し、龍造寺家の家督を誰に継がせるか意見を求めた。

彼らは鍋島直茂の功績によって龍造寺家が存続した経緯を説明し、直茂こそ家督を継ぐべきであるが、高齢であるため、その子・鍋島勝茂が相続すべきと答えた。ここに至って、鍋島家が名実ともに肥前佐賀藩主となった。

龍造寺家最後の当主・高房には嗣子がなかった。が、実は当時4歳になる隠し子がおり、のちに仏門に入って伯庵(はくあん)と名乗った。

1634(寛永11)年に3代将軍・徳川家光が上洛した際、伯庵が龍造寺家の正統な後継者であると主張したが、江戸幕府が龍造寺一門を召集して意見を問うと、かれらは鍋島家を支持。伯庵は敗訴し、鍋島家はお咎(とが)めなしとなった。

しかし、伯庵はその後も訴えを繰り返したため、会津藩預かりに処せられた。いわゆる「龍造寺伯庵事件」である。

鍋島家といえば、御家騒動の「鍋島猫騒動」が有名であるが、その下地になったのは「龍造寺伯庵事件」らしい。鍋島家が龍造寺家から佐賀藩を簒奪(さんだつ)し、その陰には伯庵のように無念に思う龍造寺一族がいたはずだという発想から物語が作られ、江戸時代後期に「鍋島猫騒動」として脚色されたのではないか。

オタク藩主・直正の藩政改革と技術革新政策


鍋島直正/(財)鍋島報效会 徴古館所蔵 Public domain, via Wikimedia Commons

10代藩主・鍋島直正(初名・斉正[なりまさ]、号・閑叟[かんそう]、1814~1871)は、前藩主の嫡男として江戸藩邸に生まれた。薩摩の島津斉彬の母方の従兄弟にあたる。斉彬が偉大なプロデューサーであったのに対し、直正は冷徹な技術オタクで、こと殖産興業に関しては斉彬も足下に及ばない業績を残した。

直正の家督相続時に佐賀藩は莫大な借財を抱え、直正が初めて佐賀に帰国する際に品川宿で借金の取り立てのために押し掛けた商人たちの座り込みに遭い、出発の延引を余儀なくされたほどであった。

そこで、直正は次々と過酷な藩政改革を行った。

まず、藩内を極端な能力制度に切り替えた。藩の役人の三分の一にあたる約420人を整理。家老以下、全ての家臣に対する俸禄米(切米)の支給をストップし、石高と役職に応じて俸禄を支給する形態に改めた。従来は役務がなんであろうと固定した収入があったのだが、直正は役務の有無によって俸禄の額を調整したのだ。極論するならば、世襲制の否定である。

また、上級藩士の子弟に勉学を奨励し、藩校「弘道館」への就学を義務化した。しかも、25歳までに一定の課業(カリキュラム)を卒業できない者は、罰を加え、藩の役職に任用しないようにした。その反面、上達者には知行の加増や加米・銀米(扶持米などの特別臨時手当)を与えて賞したという。

次いで、殖産興業であるが、直正は有能な人材を代官に投入し、小農民を保護して農業生産の振興と農村の安定を図った。その一方、櫨蝋(はぜろう)、陶磁器、石炭などの特産物の輸出を奨励した。もともと佐賀は気候温暖で肥沃な土地であり、地理的には長崎貿易へのアクセスが容易で特産物の輸出に有利であるなど、好条件が揃っていた。

ゆえに藩主が本気で改革に取り組めば、効果が現れやすかった。藩財政はあっという間に好転し、表高(おもてだか、=表面上の収入)35万7000石に対して、実収入はその倍以上の90万石以上に達したという。

こうして捻出した莫大な財力を、直正は惜しみなく西洋技術の研究と軍備の洋式化に投じた。

佐賀藩単独で長崎沖合に砲台を建築する構想を固め、1850(嘉永3)年に幕閣の諒解を取り付けた。それまでの国産製大砲は銅製で強度に難があった。しかし、鉄製大砲を輸入することなく、佐賀藩独力で開発、製造すると決め、家臣に指示。砲術家、洋学者、和算家、刀鍛冶らを総動員して砲術製造、砲術訓練に着手、また、佐賀城の北西に大砲鋳造所を設けて鉄製大砲の製造に着手した。翌1851年には国産初の24ポンド砲、さらに1852(嘉永5)年には36ポンド砲四門の鋳造に成功し、砲台を完成させた。

1853(嘉永6)年6月、ペリー率いる黒船が浦賀に来航すると、老中・阿部正弘は江戸湾岸防備の拙さを危惧し、佐賀藩江戸留守居役を呼び出して、鉄製大砲200門を大至急製造してくれないかと注文した。当時、実用に耐えうる鉄製大砲を製造できるのは佐賀藩だけだった。

かくして佐賀藩の威名は全国に轟き、諸藩からの注文や技術供与の依頼が殺到。さながら「天下の兵器廠(しょう)」の様相を呈しつつあった。佐賀藩は幕府からの大量発注を受け、反射炉の規模を拡大して工場用地を拡げていった。国産アームストロング砲の鋳造、大型木製船の建造、蒸気機関製造、蒸気船の製造に成功した。佐賀藩は洋式の兵器を藩内で製造し、着々と軍備を整えつつあったのだ。

圧倒的な軍事力で「薩長土肥」の一角へ

1861(文久元)年11月、鍋島直正は隠居して閑叟(かんそう)と号し、嫡子・鍋島直大(なおひろ、初名・茂実[もちざね]、1846~1921)に藩主の座を譲った。

佐賀藩は強力な軍事力を抱えたまま、鳥羽・伏見の戦いにすら出兵せず、業を煮やした薩摩藩は「佐賀討伐」を唱える有様だった(対決していたら、薩摩藩が負けていただろう)。結局、鳥羽・伏見の戦い後の1868(慶応4)年2月、藩主・鍋島直大が藩兵を率いて上洛。官軍についた。かくして佐賀藩がイギリスから輸入していたアームストロング砲は上野寛永寺に立て籠もった彰義隊を1日で壊滅させ、圧倒的な軍事力を証明。会津戦争ではアームストロング砲が威力を発揮し、箱館戦争では佐賀藩の軍艦が活躍した。

それまで官軍の主力は「薩長土芸(安芸広島)」と呼ばれていたのに、いつの間にか「薩長土肥(肥前佐賀)」に変わるぐらいのインパクトがあった。ほかの3藩は藩士の活躍で勝ち取った座であろうが、佐賀藩の場合はひとえに鍋島直正の藩政改革の賜物である。そういうわけで、他藩のように下士(大隈重信、江藤新平、副島種臣[そえじま たねおみ]ら)が藩政を掌握するような事態に至らなかった。

維新後の鍋島家

明治新政府が創設されると、鍋島直正・直大父子は政府の要職に相次いで登用された(大名クラスで仕える人材は、鍋島直正、伊達宗城、山内容堂、松平春嶽くらいだったらしい)。

鍋島直正・直大は明治新政府の議定(ぎじょう)職に任ぜられ、さらに直大は外国事務局権卿、外国官副知事、民部卿、大蔵卿(兼務)を務めた。一方、父・直正は軍防事務局卿および制度事務局卿、蝦夷開拓庁長官、太政官大納言に任じられている。

鍋島直大は1869年に佐賀藩知事に任命されたが、1871年の廃藩置県で藩知事を免ぜられ、同年11月に岩倉遣欧使節団に従って欧米に留学、1879年までイギリスに私費留学した。帰朝後、東京地学協会、日本赤十字社の創立に関与し、イタリア公使、元老院議官兼式部官、宮中顧問官を歴任した。大名の子としては優秀な方なのだろうが、父・直正が余りに傑物だったため、「覇気なく、策なく、断なく、勇なく」と酷評されていたという。

直大の孫・鍋島直泰(なおやす、1907~1981)は宮内省式部官などを務める傍ら、全日本アマチュアゴルフ大会三連覇の偉業を達成した名ゴルファーとして有名。直泰の長男、鍋島直要(なおもと、1935~)もアマチュアゴルフ界の重鎮として名高い。支藩・肥前鹿島藩主の家系を継ぐ、鍋島直紹(なおつぐ)が1951年佐賀県知事に就任し、さらに1959年に参議院議員に当選している。

ちなみに、武家の名門・尾張徳川家、公家の名門・鷹司(たかつかさ)家の現当主はともに鍋島家の血を引いている。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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