毛利家――中国地方の覇者の戦国・江戸・幕末の浮き沈み、そして維新後
菊地浩之
2021/03/16
毛利元就、晩年の肖像画・毛利博物館蔵「毛利元就画像」/Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons
戦国を駆け巡り中国地方八カ国の覇者となった毛利元就
毛利家は、大江広元の四男・季光(すえみつ)が父から相模国愛甲郡の森荘(毛利荘、神奈川県厚木市)を譲り受けたことに由来し、子の毛利経光が安芸国吉田荘(広島県吉田町)の地頭となり、室町時代に入ると周防守護・大内家の傘下に入った。
戦国時代に大内義隆は七カ国の守護を兼務するほど繁栄したが、1551(天文20)年に家臣・陶晴賢(すえ はるかた)の反逆に遭い、自刃させられる。
毛利元就(1497~1571)は1555(弘治元)年に謀略を駆使して陶晴賢を厳島で討ち、1566(永禄9)年に出雲の月山富田(がっさんとだ)城の尼子義久(あまご よしひさ)を倒して、中国地方八カ国の覇者となった。
元就は正室・吉川(きっかわ)氏との間に3人、側室との間に6人の男子がいた。
長男・毛利隆元(1523~1563)は毛利家の家督を継ぎ、次男・吉川元春(1530~1586)は夫人の実家・吉川家を継ぎ、三男・小早川隆景(こばやかわ たかかげ、1533~1597)は備後(びんご)竹原の小早川家の婿養子となった。元春、隆景は「毛利家の両川(りょうせん)」と呼ばれ、毛利家の発展を支えた。
西軍の総大将の毛利輝元は120万石の大大名から37万石の外様大名に
隆元の嫡男・毛利輝元(1553~1625)は、1563(永禄6)年、父の死により家督を継いだが、若年ゆえ祖父・元就、叔父の吉川元春・小早川隆景が後見した。
1577(天正5)年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は中国経略に着手し、毛利家と対峙した。1582(天正10)年、本能寺の変で信長が横死するが、秀吉は信長の死を秘して毛利家と講和する(一説に、信長の横死に気付いた毛利家では、山陰担当の吉川元春が秀吉を追撃するように主張したが、山陽担当の小早川隆景が反対して追撃しなかったといわれている)。
毛利家が講和に応じ、秀吉を追撃しなかったことは、結果として秀吉の天下取りを助けることとなった。秀吉はこのことに恩義を感じ、豊臣政権で毛利家を非常に厚遇した。毛利輝元は中国八カ国を安堵され、叔父・小早川隆景は筑前、筑後(福岡県)と肥前の一部(佐賀県)を与えられ、ともに五大老に選ばれている。
1600(慶長5)年、関ヶ原の合戦で、毛利輝元は西軍の大将になったが、自身は出陣せず、毛利秀元、吉川広家を石田三成に従軍させた。
吉川広家は秘かに徳川家康に内応し、毛利家の所領安堵を交渉。いざ合戦が始まると、秀元を山上に据え、自らは麓でサボタージュした。手前の吉川軍が動かないため、秀元率いる毛利本軍も合戦に参加することができないまま、合戦を終えた。
これで広家の企み通り、合戦の勝敗にかかわらず「毛利家は安泰」となるはずだった。ところが、徳川軍が大坂城に乗り込むと、輝元の発給した文書が多数発見され、毛利家は改易。従来の説では、優柔不断の毛利輝元が西軍の大将に祭り上げられ、まんまと家康の術中にはまり、敗戦の責任を取らされて大幅に減封された――というものであったが、近年の研究によれば、毛利輝元は大坂城で黙っていたわけではなく、一族を伊予(愛媛県)に差し向けて武力侵攻するなど、積極的に軍事行動したことが咎められたらしい。
毛利家は改易されたが、吉川広家には関ヶ原の合戦での恩賞として長門、周防(ながと、すおう)二カ国が与えられた。広家は家康に毛利家の所領安堵を再考するように懇請したが、埒が明かず、自らは身を退いて長門、周防を毛利本家に譲った。
結果として、毛利家は中国八カ国120万5000石から、長門、周防二カ国の36万9000石の大幅減封という形となった。
幕末の藩主は「そうせい様」と陰口を言われた暗君?
長州藩は薩摩藩と並んで明治維新の原動力になったが、その藩主のキャラクターは全く異なるものだった。
明治維新の時、薩摩藩主は島津忠義だったが、実権はその父・島津久光が握っていた。維新後、久光は明治新政府に不満をぶつけて厄介者扱いされたが、毛利敬親、元徳父子は明治新政府の方針に極めて従順だった。
毛利敬親(たかちか、初名・慶親[よしちか]、1819~1871)は、家臣の言うことに対して何でも「そうせい」と答えることから、「そうせい様」と陰口をたたかれていた。ただし、要所では決断し、明確な指示を与えており、決して凡庸な暗君とは思えない。また、維新の功臣・木戸孝允は、旧主・毛利元徳に対して頻繁に報告していたといわれているが、これも元徳が「聞く耳」を持った藩主だったからであろう。
ただし、余りに従順なことは欠点にも繋がる。
長州藩出身の井上馨は「旧藩主毛利家に人物(=有為な人材)のいないのを憂え、人物育成のため」寄宿舎を建て、他家の子弟と一緒に教育しようと考えた。その寄宿舎には、マレーの虎狩りで有名な徳川義親(よしちか)、旧皇族・北白川宮、公卿の西園寺・三条、三井・藤田・鴻池財閥の子弟らが在籍していたという。
維新後の毛利家
1868年、毛利元徳は明治新政府の議定(ぎじょう)職に任ぜられ、版籍奉還で1869年に山口藩知事に任命されたが、1871年の廃藩置県で藩知事を免ぜられ、東京に移住。1884年に公爵に列した。また、華族資本の第十五国立銀行頭取にも就任している。
1877年、毛利家を後見していた木戸孝允が死去すると、翌年に毛利家は井上馨、宍戸璣(ししど たまき)、杉孫七郎、山田顕義(あきよし)らを家事忠告人に選任した(のちに伊藤博文も任命されたが、熱心でなかったという)。大名家は維新後も政治的・経済的にバックアップしてもらうべく、出世した藩士を顧問に迎えて家産の形成を図っていたのだ。
井上馨は「三井の大番頭」と皮肉られたくらい新政府きっての財政通だったので、その才能を遺憾なく発揮し、毛利家の財政基盤確立に尽力した。井上は投機を避け、「有利な諸会社銀行」の株式を購入するとともに、旧長州藩士・藤田伝三郎が興した藤田組(現 DOWAホールディングス)や九州の炭礦財閥・貝島家への融資を斡旋した。
元徳の子・毛利元昭(もとあきら、1865~1938)は、拠点を防府市に移した。俗に「旧毛利邸」と呼ばれるもので、邸内に毛利博物館が設立されている。その子孫も日本ユネスコ協会連盟中央委員、財団法人毛利報公会会長などに就任している。
この記事を書いた人
1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。