上杉家――鎌倉、室町、戦国、江戸、幕末…名門の紆余曲折
菊地浩之
2020/10/12
上杉重房像/藤本四八(1911, 飯田-2006、小樽) / Public domain
足利尊氏の母の実家ゆえ、関東管領に
源家三代が滅んだ後、鎌倉幕府は頼朝の姉の孫・藤原頼経を四代目の征夷大将軍に迎え(摂家将軍)、六代目の征夷大将軍には後嵯峨(ごさが)上皇の子・宗尊(むねたか)親王を迎えた(宮将軍)。
上杉家の家祖・上杉重房(しげふさ)は、宗尊親王が鎌倉に下向してくる際に付き随ってきたと伝えられている。上杉家は藤原良門(よしかど)の子孫で、公家の勧修寺(かじゅうじ)家の支流。重房が丹波国(たんばのくに)何鹿(いかるが)郡の上杉庄(京都府綾部市上杉町)に所領を持っていたので、上杉を名乗ったという。
周知の通り、上杉家は室町幕府の関東管領に任じられる。
足利尊氏は四男の足利基氏(もとうじ)を鎌倉公方として鎌倉に置いたのだが、尊氏の母が上杉重房の孫娘だったので、母方の従兄弟・上杉憲顕(のりあき)をその執事につけたのだ。憲顕はのちに関東管領となり、上野(こうずけ)・伊豆・越後の守護も兼ね、関東に一大勢力を誇った。
以後、上杉家が関東管領は世襲したが、上杉家は山内・扇谷(おおぎがやつ)・犬懸(いぬがけ)・宅間(詫間。たくま)の四流に分かれ、勢力争いに明け暮れた。
宅間上杉家は早々に勢いを失い、犬懸上杉家は上杉氏憲(うじのり。法名・禅秀:ぜんしゅう)が鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)に叛旗を翻して滅亡した(上杉禅秀の乱)。その後、山内上杉家と扇谷上杉家が対立したが、山内上杉家が優位に立った。しかし、小田原北条家が関東を席巻すると、山内上杉家は扇谷上杉家と連携して立ち向かうが敗退。扇谷上杉家は滅亡した。
山内上杉家の上杉憲政(のりまさ)は、一族が守護を兼ねていた越後に逃亡。越後守護代の子・長尾景虎(かげとら。のちの上杉輝虎。謙信)を養子に迎えることで、名家存続を図った。
越後守護の縁を生かして謙信に名跡を継がせる
上杉謙信は越後を基盤としながら、関東管領として、しばしば関東に出征するが、小田原北条家の前に関東制覇を成し遂げることが出来ず、ついに北条氏康と和睦して、その子・氏秀(うじひで)を養子として、自分の旧名・上杉景虎を与えた。
謙信は妻帯せず、子がなかったため、その一方、姉の子・上杉景勝(かげかつ)を養子に迎えた。天正6(1578)年、謙信が後継者を指名せぬまま急死すると、景虎・景勝間で家督相続争いが勃発(御館の乱)。景勝が勝利し、景虎は自刃を余儀なくされた。
天正10(1582)年に本能寺の変が起こり、豊臣秀吉が信長の後継者となる過程で、景勝は秀吉と和議を結び、その傘下に入った。景勝は五大老の一人に選ばれたものの、慶長3(1598)年に父祖伝来の地・越後から陸奥会津120万石へ国替えされてしまう。
無嗣廃絶を免れるため、吉良上野介の子どもを養子に
慶長5(1600)年、景勝は関ヶ原の合戦で家康に反したため、出羽米沢30万石へと4分の1に減封されてしまう。しかも、寛文4(1664)年にその孫・上杉綱勝(つなかつ)が子がないまま急死し、御家断絶の危機にさらされる。
幸い綱勝の義父・保科正之(ほしな まさゆき。将軍・徳川家光の異母弟)が幕府の有力者であったことから、正之の尽力により、綱勝が妹の子・綱憲(つなのり)を生前養子に指名していたと、でっち上げて無嗣廃絶を免れた。ただし、その代償は大きく、また15万石に半減されてしまう。綱憲の実父は、かの悪名高き吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしなか)だったので、米沢では忠臣蔵が上演されなかったという。
綱憲の孫・上杉重定(しげさだ)にはなかなか男子が恵まれなかったので、従姉妹の子・上杉治憲(はるのり。号・鷹山:ようざん)を婿養子に迎えた。鷹山は藩政改革を成功させ、治憲の男子が産まれるとその子に家督を譲り、名君と讃えられた。
鷹山を有名にしたのは、来日した米国ケネディ大統領が、尊敬する日本人に鷹山の名を上げたことだ。当時は新聞記者でも上杉鷹山の存在を知らず、「ヨーザン フー」の状態だったという。その後、米沢藩は内政良好を讃えられ、3万石を加増されている。
幕末、会津藩が賊軍とされ、米沢藩・仙台藩に会津藩征討を命じると、両藩は逆に会津赦免を願い出て奥羽越列藩同盟を結成した。米沢藩は、会津藩の祖・保科正之にかつて無嗣廃絶の危機から救ってもらったことを忘れなかったのだ。ちなみに、仙台藩も、有名な伊達騒動を正之が穏便に収めてくれていたから、その恩義に報いたのだという。
とってもいい話なのだが、世の中はそんなに甘くなかった。両藩は戊辰戦争に敗退し、米沢藩は14万7000石に減封され、仙台藩に至っては62万石を28万石に減封されてしまったのである。
この記事を書いた人
1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。