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まちと住まいの空間 第34回 ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり⑤――外国人が撮影した関東大震災の東京風景(『関東大震災』より)

岡本哲志岡本哲志

2021/03/23

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数多く遺された関東大震災を映した記録映画

大正12(1923)年9月1日、相模湾海底を震源とする推定マグニチュード7.9の巨大地震が東京を襲う。この地震により、東京は多くの建物が倒破した。正午少し前に起きたことで、どの家庭も昼食の支度で火を使う時刻と重なる。地震後に多発する火事は、悲惨さを極限まで増大させた。

そんな最悪の時間帯に起き、最悪の結果をまねいた関東大地震の記録映画を2回にわたって読み解いていく。

関東大震災の様子は、作品として複数映像化され今日に残っているが、そのなかで2つの作品を取り上げたい。

ひとつは『関東大震災』(1923年、制作:アメリカン・パテ・ニュース、11分、英語版タイトルは『SCENS OF JAPAN’S EARTHQUAKE DISASTER〔日本の地震災害の光景〕』)。日本での配給:マツダ映画社、フィルム所在:国立映画アーカイブ)。いまひとつは『関東大震災実況』(1923年、制作:日活向島、撮影:高阪利光・伊佐山三郎、20分、フィルム所在:国立映画アーカイブ)である。


図/2つの作品の撮影エリア

1回目の今回、紹介するのは『関東大震災』で、外国人のカメラマンに撮影されたものだ。

※日米での映像編集の違いがあり、原稿内容と異なっている部分があります

関東大震災によって赤坂榎坂町(現・赤坂一丁目)にある米国大使館は大きな被害を受け、その後焼失した。映像には仮の米国大使館となる9月1日にまさにオープンの時をむかえようとしていた帝国ホテルの姿が捉えられている。


絵葉書/帝国ホテル

大使館の機能が帝国ホテルに移されたこともあり、フィルムにおさめられたエリアは、帝国ホテルに近い日比谷・銀座が中心で、米国大使館を結ぶ山の手の狭い範囲に限られている。

この『関東大震災』という映画は、3つの柱を基本に一つの作品としている。

1つは「高い場所から広大な被災エリアをパノラマで俯瞰」し、そのパノラマと重ねるように日比谷・銀座を中心とした下町の撮影。

2つは「帝国ホテルからアメリカ大使館へ向かう山の手の撮影」である。東京を訪れた米国の人であれば多少馴染みの道筋であり、風景であろう。

3つは「焼失前の大正期の東京と比較」し、廃墟になった都市空間と重ねる。加えて、間違い探しも重要な助けとなり、興味深い発見があった。

被害の全体像を映した帝国ホテルと有楽館の屋上からのパノラマ映像

知らない場所を手早く知るには、まず広い範囲を一目で把握したい。それには見晴らしのよい場所からのパノラマ俯瞰は、被災風景の位置関係を確認するうえで実に有効である。

この記録映画では、2カ所の建物屋上からパノラマ映像が撮影されている。登場するパノラマの映像には解説がないが、帝国ホテルの屋上から撮られたものだ。映像は、手前にほぼ壊滅状態の日比谷、その奥に有楽館(旧日石ビル、1922年竣工)など多くの建物が残る丸の内からスタートする。

日比谷は一部に木々と、電燈会社だった大きな建物が壁だけを残し焼失した。この木々と壁が帝国ホテルへの延焼を食い止めたように思える。

右に移動する映像は、手前に高架鉄道と外堀川、その先に左から実業之日本社(1922年3月着工、1924年9年竣工)、第一相互館(1921年竣工)、大倉本館(1915年竣工)と、しっかりと建ち続ける建物を撮っていく。


絵葉書/関東大震災後、復興しはじめる銀座。一際高い建物が実業之日本社

さらにカメラのレンズは、鉄骨骨組みの松屋と松坂屋をとらえた。

いまひとつのパノラマは、建物の外壁が比較的多く残る、帝国ホテル近くの銀座を車で撮影した映像と「帝国ホテルの屋上から見た崩壊と廃墟と化した残骸」と記されたフリップの後に登場する。


絵葉書/銀座通りの惨状

実業之日本社が映され、高架鉄道、外堀川、大倉組本店、鉄骨骨組みの松屋、廃虚と化した銀座の市街と続く。

2つのパノラマを比較すると、後に登場するパノラマは実業之日本社(銀座一丁目)がかなり近距離にある。この位置から勘案して、帝国ホテルの屋上からの撮影ではなく、有楽館(現・丸の内三丁目)の屋上からであろう。


図/『関東大震災』で撮影された場

有楽館の設計は曽禰中條(そねなかじょう)建築事務所、施工はフラー社だった。関東大震災のとき、仕事で中国沿岸部の港に居合わせたフラー社幹部社員が日本に向かうアメリカの艦隊に乗船し、震災後極めて早い時期にフラー社担当の建物、東京の被災状況を調べ、ニューヨークにある本社に知らせている。屋上での撮影は彼を通じた可能性が高い。

以前から気になっていた関東大震災直後に撮られた絵葉書があった。2つのパノラマ映像とは位置関係が少し異なり、実業之日本社の屋上からではないかと思われるものだ。


絵葉書/京橋・新橋方面の俯瞰。鉄骨の骨組み状態の松屋と松坂屋が見える

時折眺めていた絵葉書だが、鉄骨の骨組みを見ても特に気に止めなかった。しかし、『関東大震災』のパノラマ風景にある松屋(1925年5月開店)の骨組み、さらに南東の方の松坂屋(1924年開店)の骨組みを観たとき、衝撃を受けた。

3、4年の建設期間(丸の内の東京海上ビルは4年半の工期)を必要とする大正期の大規模高層建築だが、関東大震災後2年も満たずに完成した松屋と松坂屋の疑問が解けた。絵葉書の段階で気付けばよかったと反省しきりである。あるいは動画によって脳が思いがけず反応したのかもしれない。それはともかく、松屋も、松坂屋も、関東大震災以前から建設がスタートしていたと遅まきながら分かったのである。

ちなみに、松屋と松坂屋は、保険会社の建物を賃貸してのスタートだった。写真館と保険会社は、戦地に向かう兵士が記念撮影し、生命保険に加入したことで、大いに繁盛する。このように大正期の保険会社は巨大ビル建設が可能な企業に成長していたのである。

撮影範囲が限られていたのは、関東大震災後に戒厳令がしかれており(11月15日までの2カ月半)、当時外国の人たちに対して強い制限が及んでいたからである。また、日本への最大限の援助を惜しまなかった米国だが、日米間の信頼関係は第一次世界大戦以降から崩れかけていた時代背景もあった。

双方の国が疑心暗鬼の状況のなか、戒厳令下の東京をおおっぴらに撮影できない事情があった。「被災地全域の映像は自動車の中で撮影した」とのフリップが出され、これから撮影に出ると思われる自動車が映る場面もある。それは戒厳令下、後部座席に座るカメラマンがカメラを毛布に巻いて隠すシーンだ。

山の手にあった謎の邸宅の残骸

「被災地から離れた道路は避難者が列をなす悲惨な専用道路と化した」とフリップが出て、山の手の風景が登場する。大きく右にカーブする緩やかな上り坂の市電通り、瓦礫となった周辺の街並み場面だ。その市電通りをさらに進むと、火災に合わず建物が並ぶ街並みに変わっていく。被害が比較的少なかった山の手や郊外へと避難する人たちをカメラがとらえている。

ただこの映像だけでは、場所を具体的に特定できない。場所が特定できずなんとなく映像を繰り返し観ていたとき、「格子装飾の門……大隈男爵の豪華な邸宅も、いかめしく寂しい残骸と化した」と書かれたフリップ、門とその奥の被災した屋敷だけを映す静止画に目が止まった。

「大隈男爵」、これは明らかな間違いだ。

大隈重信の自邸は、赤坂あたりにはなく、早稲田にあって無事だった。しかも、大正11(1922)年に他界した大隈重信の爵位は侯爵(爵位の順は、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の順)である。その後養子の大隈信常(1871〜1947年)が爵位を継承し、侯爵となる。2人とも「男爵」ではない。そのとき、「Okuma→Okura」、アルファベットの「m」と「r」の間違いだと気づいた。

大倉喜八郎(1837〜1947年)は、明治11(1878)年に赤坂葵町三番地に旧前橋藩主・松平大和守の屋敷(1872年からは工務省地理寮)、敷地規模7900坪の広大な土地の払下げを受けている。新政府は主だった実業家に対し強力な財政の後ろ盾を目論んで、大名屋敷跡地を与えた。

男爵となる大倉は、長州藩出身で関西財界の重鎮であった藤田伝三郎と組み、日本最初の法人建設企業・日本土木会社を設立し、帝国ホテルの建設にも携わる。帝国ホテルの創業者ともなった。この映像を撮影したカメラマンは帝国ホテルを拠点としており、その近く大倉邸を意図して撮影したというわけだ。

しかし、米国本土で編集する段階となり、大倉邸の映像はシーンとシーンの間に挟む単なる切り替え映像として挿入される。ただし、静止画像だけでは邸宅の人物を特定できず、フリップを入れた。その時、「大倉喜八郎」の名が米国でも認知度の高い明治期の著名人である「大隈重信」にすり替えられてしまった。「m」と「r」の一字違いが分かったときは、映像の一つ一つの場所がクリアとなる。帝国ホテルから米国大使館までの道のりも最短距離で考えればよい。山の手を映した場所が判明し、貴重な間違いの発見となった。

これに気づいたことで「帝国ホテルと米国大使館の間で、関東大震災の焼失から免れ、市電が通る緩やかな坂道」といった条件を重ねて絞り込む。

激しく被災した市街で、右に大きくカーブする市電の道(現・外堀通り)は琴平町(現・虎ノ門一、二丁目)あたりと分かる。その先にある被災が軽微な市街は溜池町(現・赤坂一丁目)あたりで、道の北側の溜池は大正になると埋め立てられ市街化していた。この道の左手の南側に米国大使館があり、霊南坂を挟み大倉邸(現・オオクラ東京)がある。

焼失前の東京と比べながら、繁栄と被害をコントラストで展開

東京を知らない米国の人たちは、瓦礫が続く平坦な風景を観て、どことも知れず困惑するだろう。そのような思いを受けて「過去の東京とは」のフリップが示され、繁栄した東京の俯瞰風景を映す。再びフリップが登場して「至り来る災害をよそに、平和で勤勉な東京の人々は大都市の通りに満ち溢れていた。近づく災害を少しも夢見ることはない」と。米国本土の人たちが瓦礫となる以前の風景から、東京の豊かな都市風景の喪失を知るという構成になっていた。

次に登場する街の光景は、東京の繁華街を代表する日本橋、浅草、銀座。「近づく災害を少しも夢見ることはない」と記されたフリップの文章を象徴するシーンがある。銀座通り(銀座三・四丁目あたり)でにこやかに知り合いと談笑する娘さんの姿が映し出される(※リンクしている映像に、この場面はありません)。

関東大震災で火災が起きたとき、銀座の人たちの行動が胸を痛ませる。尾張町交差点(現・銀座四丁目交差点)を境に、銀座一丁目から四丁目の人たちは築地方面へ。火の様子から両国の被服廠跡地にも逃れて行ったかもしれない。一方、銀座五丁目から八丁目の人たちは、芝の増上寺に逃げて無事だったという。

ラストシーンに向け、これまで映されてきた被災の光景を短くオムニバスでリプレイする。瓦礫と化した日比谷や外堀川沿い、煉瓦の外壁が残り続ける銀座のほか、被災した丸の内の東京會舘も映る。


絵葉書/被災した東京會舘

最後のフリップでは「悲惨な日本だったが、米国や世界の国々の助けを借りて、生まれ変わることになる」と、支援のメッセージが込められる。映像の最後は被災した米国大使館。暖炉(マントルピース)の煙出し煙突の構造壁だけが数本立ち、そこに日本人の母子が訪れる場面である。

ただし、この残骸が暖炉の煙出し煙突と気付くまでには、いろいろと想像を巡らせる。

ラストシーンだけに、はじめは何かのモニュメント(記念碑)ではないかと脳裏を過る。何も知らずに観ると、ラストシーンは神秘的に思えたからだ。「焼失せる内務省」と題された絵葉書を見つけたとき、ラストシーンが米国大使館焼失後に残された暖炉の煙出し煙突の残骸とやっと気付く。洋風建物が焼失した跡には、耐震力のある不燃の煙突だけが残っていた(※リンクしている映像のラストシーンは異なります)。


絵葉書/焼失した内務省。煙突だけが残る

【シリーズ】ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり
①地方にとっての東京新名所
②『大正六年 東京見物』無声映画だからこその面白さ
銀座、日本橋、神田……映し出される賑わい
④第一次世界大戦と『東京見物』の映像変化

【シリーズ】「ブラタモリ的」東京街歩き

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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