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まちと住まいの空間 第30回 ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり①――地方にとっての東京新名所

岡本哲志岡本哲志

2020/11/25

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時代によって変わる名所

記録映画は、ノンフィクションでありながら、制作者側の意図が強く反映する。しかし、そこに映し出された風景は、制作者側の意図を超え、その時々の時代性を映す。

どの都市風景をチョイスするかは制作者側の意図によるが、選ばれた都市風景から何を感じ取るかは観る側の感性に委ねられる。もう少し踏み込めば、制作者側が選んだ風景も、時代の特性(特徴)が充分に汲み取れる。より明確に時代の風景を捉えるには、制作者側の意図も避けてはならない。むしろ、時代とともに選ばれた都市風景への考察がより重要性を増すからだ。

これから、関東大震災前の大正期、関東大震災、関東大震災後から大東亜戦争に向かう昭和戦前期、戦後東京オリンピックまでの高度成長する時期、これら4つの時代の東京を映した記録映画について書こうとおもっている。

連載で登場する主な作品は次の通りである。

関東大震災前の大正期は『大正六年 東京見物』(1917年、村田商店、26分)。関東大震災は『関東大震災実況』(1923年、制作:日活向島、撮影:高阪利光・伊佐山三郎、20分)と『関東大震災(仮題)』(1923年、制作:アメリカン・パテ・ニュース、11分)。関東大震災から大東亜戦争に向かう昭和戦前期は『復興帝都シンフォニー』(1929年、制作:東京市政調査会、撮影:大日本教育映画協会、32分)と『東京の四季』(1932年、制作:文部省、54分)。戦後東京オリンピックまでの高度成長する時期は『大東京祭 開都五百年記念』(1956年、制作:東京都映画協会、監督:伊勢長之助、15分)と『佃島』(1964年、監督:浮田遊兒、18分)。

この計7本の作品を現段階では予定している。

最初の作品は大正6(1917)年の『東京見物』である。これを4回に分けて語るところからはじめたい。

1回目は、大衆化するまでの映画の経緯と大正期の映像に写された名所について。

2回目と3回目は、無声映画という特殊性によるフリップに着目する。フィルムとして現在に残る『東京見物』は、最初に映写された時と比べ、多くの画像が新しく付加されていた。『東京見物』を何度も繰り返し試写するうち、大正6年当時(撮影はそれより少し前)の状態を復元したいとの思いを強くする。

4回目は、フリップ無しで、新たに付加された風景について考えてみたい。それは、関東大震災前すでにモダン都市化していた東京の姿を確認したいとの思いがあったからだ。

一方で、近代化を突き進んできた明治という時代、あるいは江戸への振り返りをどのように理解すればよいかについても方向づけしたいとの願いがある。目の前に映し出される風景は、まぎれもなく当時の現実であり、これらの問いへの扉でもある。

世界最初の映画公開から『東京見物』へ

映画の起源は、一般的にフランスのリュミエール兄弟が明治28(1895)年に『ラ・シオタ駅への列車の到着』、『工場の出口』などを最初に映画公開した時とされている。ただし、エジソン(1847〜1931)年をはじめ、同時多発的に「活動写真(今日の映画)」(当時の開発方法によっていろいろな呼び方があるが、ここでは煩雑さを避け、「活動写真」に統一して語ることにしたい)の開発は進められており、時期を経ずにそれぞれが映画公開の道を切り開く。世界初の映画公開から、今回話題とする『東京見物』が上映されるまでは、僅か22年の歳月に過ぎない。映画は驚くべきスピードで日本においても大衆化されてきた。

リュミエール兄弟の初公開から僅か1年、翌年の明治29(1896)年には「活動写真(キネスコープ)」が神戸の高橋新治によって日本に持ち込まれた。その映像を小松宮彰仁親王が観ている。明治30(1897)年になると、2月に大阪、3月に東京と、エジソン社製の「活動写真(ヴィスタスコープ)」が上映された。

東京では、明治32(1899)年6月1日、神田の錦輝館(きんきかん、1891〜1918年、現・神田錦町3-3)においてアメリカのニュース映画『米西戦争活動大写真』が初上映された。この時が「日本初のニュース映画上映」とのこと。明治期の神田は、大衆という面では、現在からの想像を遥かに超える注目度があったようだ。


絵葉書/明治期の神田神保町通り

家近良樹著『その後の慶喜 大正まで生きたい将軍』(講談社選書メチエ/ちくま文庫)に、写真の撮影を趣味とした徳川慶喜が「明治32年の6月10日には、神田錦町にあった錦輝館で活動写真(いまの映画)を見ている」と書いてある。新しもの好きの慶喜が封切りから10日遅れで活動写真を観た。

慶喜が映画を観た年から4年後、明治36(1903)年には、日本最初の活動写真の常設館「電器館」が浅草六区に開設された。日露戦争(1904・05年)後は戦況を知らせる実写映像が活動写真への関心を高め、映画館に向かう客が飛躍的に増加する。日本映画は、絵葉書と同様に、日露戦争が画期となった。

明治40(1907)年代になると、浅草六区には電器館の他、三友館、大勝館、富士館、帝国館、金龍館などの映画館が誕生し、日本一の活動映画の街となる。


絵葉書/人々で賑わう関東大震災前の浅草六区

新着洋画はまず浅草で封切られた。動画への関心は、地方での巡回映画の人気を高める。首都として近代都市化が進む東京をドキュメンタリータッチで描く『東京見物』も日本中を巡回上映された。

記録映画が映し出す近代東京の名所とは

明治という時代は、観光名所を紹介する方法が錦絵から写真の絵葉書に変わる。

東京土産として、明治33(1900)年以降に絵葉書が近代化する東京の名所を全国に伝えた。東京は、天皇が住まう宮城(皇居)を中心に、政治、経済、文化、娯楽の最先端が都市風景をつくりだしていた。こうした東京の近代景観は、江戸の風景を引きずる地方でもてはやされた。

東京の観光地を映しだす『東京見物』の上映場所には老若男女が集まるが、その多くが東京をよく知らない人たちだ。どこを映せば、大正のころの帝都東京をクリアーにイメージさせられるのか。映像は、地方に居ながらにして東京を察知できる必要があった。誰でもが認知できる東京の風景であり、近代東京の名所でなければならない。

江戸時代からの名所の定番である浅草や上野は、東京を確認する上で重要なスポットとなる。しかも、これらは近代東京を示す新名所が明治・大正期に加わっていた。

上野は幾度も博覧会が開催され、その度に芸術の森として変貌する。同時に子どもたちが楽しめる動物園も開業し、近代の芸術文化と娯楽が同居する。


絵葉書/上野動物園入口

ただし、『東京見物』では、シロクマなど、動物の撮影時間が大変長い。地方の子どもたちが視野にあったのだろうか。

浅草は、浅草寺とともに、近代以降の娯楽の殿堂として六区が賑わいをみせる。映像は、場所の知名度と、西洋という新しい文明の象徴が合体することで、近代東京の名所をアピールした。

『東京見物』の描く近代東京8つのエリア

『東京見物』の観光名所は、大まかに8つのエリアに分けて紹介する。


図/『東京見物』に登場する場所

映像は「東京駅」からはじまり、1.「丸の内、宮城(現・皇居)」、2.「霞が関」、3.「赤坂(赤坂離宮、旧乃木邸)」、4.「寺社(靖国神社、増上寺、泉岳寺)」、5.「繁華街(銀座、日本橋、神田万世橋駅付近)」、6.「上野」、7.「浅草」、8.「隅田川」と進み、「隅田川河口部の東京湾」で終わる。


絵葉書/東京駅

登場する場所を見ると、訪れた名所の数は明らかに「南高北低」であり、南側に比重が置かれている。「北高南低」の江戸ではない。それぞれの名所は、全体的に江戸をベースとしながらも、明治という時代が意識的に描かれる。建築でいえば、東京駅、万世橋駅などの赤煉瓦建築。人でいえば、明治天皇と乃木大将。そして東京の風景の一部となった西郷隆盛などの銅像。


絵葉書/西郷隆盛の銅像

東京に置かれた銅像の多さは、知名度の高い人物の多さといえよう。このような明らかに近代東京の名所の定番といえる場所のほかに、「なぜ」「どうして」という映像が幾つか散見する。東京名所の定番風景は次回以降に譲るとして、その「はてな」マークを見ていくことで第1回は締めくくりたい。

例えば、「弁慶橋」と「泉岳寺」。明治・大正期の絵葉書にほとんど登場しない。ただし、「泉岳寺」は赤穂浪士四十七士の墓があることで全国的に知名度が高い。墓を写した絵葉書は、泉岳寺本堂や山門の希少さに比べ多く目にする。


絵葉書/泉岳寺の本堂

映像に墓が出てこないが、弁士でもいれば、泉岳寺が映された時に忠臣蔵、赤穂浪士の話で盛り上がりを見せたかもしれない。

次に赤坂見附にある「弁慶橋」。この橋は、橋の名前から「武蔵坊弁慶」をつい想像してしまうが、そうではない。弁慶濠は、寛永13〜16(1636〜39)年の間に外濠として掘られた。この濠は、江戸城普請の大工棟梁で、名高い木技師として知られた弁慶小左衛門が手掛け、濠の名ともなる。

しかし、この濠に橋が架けられた時期は遅く、明治22 (1889) 年まで待たなければならない。この橋の名が「弁慶」と名付けられた背景は、濠の名からだけではない。架橋には、藍染川に架けられていた名橋と謳われた橋の古材が再利用された。橋を手掛けた人物がやはり弁慶小左衛門ということで、「弁慶橋」と名付けられるに相応しいなりそめがあった。ただ、大正期映像に映し出された橋の欄干は、立派な擬宝珠で飾られていた。


絵葉書/弁慶橋と弁慶濠

いくら名工とはいえ、藍染川に架かる橋に擬宝珠はあり得ない。弁慶橋は、江戸時代の三六見附の城門に架かる、筋違橋、浅草橋、神田橋、一ツ橋にそれぞれあった擬宝珠が移され、擬宝珠のある橋となる。擬宝珠があったそれぞれの橋は、東京都心の陸上交通の重要な場所に架けられていただけに、木造から石造、あるいは鉄造の橋に架け替えられるタイミングでもあった。全国的な知名度がないとしても、弁慶橋は明治期に凝縮して示された江戸の風景だともいえる。制作者側の意思がここに強く込められているようにも思えるが、現在そのことを確認することはできない。

【シリーズ】ドキュメンタリー映画に見る東京の移り変わり
②『大正六年 東京見物』無声映画だからこその面白さ
【シリーズ】「ブラタモリ的」東京街歩き

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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