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浅草・今昔物語 明治維新、戦争、高度経済成長、インバウンド、コロナ…… 時代に合わせて変貌を遂げた街(2/3ページ)

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シンボル的存在 浅草寺と仲見世 

浅草といえば、その中心は浅草寺で、その周囲に広大な土地や寺を持つ。浅草は寺を中心とするコミュニティだった。浅草寺は第2次大戦中までは天台宗の宗門だったが、1950年に聖観音宗(天台宗系)の単立の寺院として独立、山号を金龍山として本山となっている。

浅草寺が今のようなかたちになったのは、明治政府が廃仏毀釈を進めた1873(明治6)年のこと。境内の土地を公園にしてしまう。浅草寺は境内も含めて国や東京市の管理になり、事実上、所有権は奪われた。

また、竣工時の高さ52メートルの凌雲閣(12階建て)が完成したのは1890(明治23)年のこと。しかし、1923(大正12)年の関東大震災で建物が傾いてしまい撤去された。新橋、向島、神楽坂など東京6花街のひとつが浅草で、今も芸姑を派遣する見番も残っている。


凌雲閣の模型

1903(明治36)年には、日本初の常設映画館の「電気館」ができた。大正時代の六区には映画館や劇場、30前後が軒を連ねた。料理屋が50軒ほど、待合茶屋もおよそ250軒が建ち並び、芸者衆は1000人あまりいたという。また、あまり知られていないが国技館も浅草にあった。

日本初のストリップの常設劇場「ロック座」が浅草六区にできたのは1947(昭和22)年の戦後になってからだ。その後「浅草座」「大都座」「美人座」と続々とストリップ劇場と劇場がオープンした。私設の馬券売り場が400軒もあり、まさに何でもありの場所が浅草だった。


炭治郎と鬼舞辻無残が遭遇した浅草六区の今の景観

その後、娯楽の中心がテレビの時代になると、ストリップショーの間で芸を磨いた芸人たちが人気者となっていく。芸人たちは浅草の劇場で、面白くなければ「引っ込め」と容赦ない罵声を浴びせられ鍛えられてきた。

その中でもピカイチだったのが渥美清で、『男はつらいよ』の映画シリーズ48作(シリーズ総数は50作)はギネスブックにも認定されている。また、浅草のストリップ小屋が育てた最後の芸人がビートたけし(北野武)といわれている。


浅草が育てた渥美清(寅さん)の顔抜きパネル

浅草寺の門前の仲見世の建物は、1927(昭和2)年に東京市が建てた。コンクリート製の当時のモダンな復興建物だ。店舗が建ち並ぶおよそ250メートルの参道は一直線で、日本を代表する門前の景観を形成している。

戦後、土地は寺に戻されたものの、土地はタダ同然で東京都が借り、仲見世の大家として建物を管理してきた。2017年に建物を東京都が寺に売却。店が建ち並ぶ仲見世商店街は宗教関連施設ではなく、商業的な収益施設として都から固定資産税が課税されるようになり、建物の維持管理も寺が行うことになった。そのためこれまで仲見世の1店舗の月の平均家賃2万3000円と安かったものが、一時は桁違いの値上げになると話題になった。

一方、浅草寺には数多くのお堂や祠、地蔵尊があるがその中でもひときわ目を引くのが五重の塔で、これはもともと雷門と奥の交番の間に建っていた。しかし、空襲で本殿とともに消失。塔の背後の景色を考慮して現在の西側に移転した。

浅草寺の本殿の東隣にあるのが「三社祭り」で有名な浅草(あさくさ)神社だ。戦前は重要文化財や国宝に指定されたものも含めて7基の神輿があったが空襲によってすべてが消失。現在ある神輿は1950年以降に奉納されたものだ。

次ページ ▶︎ | 今の浅草の姿と残された昔の浅草 

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この記事を書いた人

経済アナリスト

マクロ経済面から経済政策を批評することに定評がある。不動産・株式などの資産市場、国や自治体の財政のバランスシートの分析などに強みを持つ。著書に『若者を喰い物にし続ける社会』(洋泉社)、『世代間最終戦争』(東洋経済新報社)、『地価「最終」暴落』(光文社)などがある。

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