相手を責めても始まらない。そう気付いてから変わった家族のカタチ(前編)
しばはし聡子
2021/02/04
イメージ/123RF
離婚後も両親で子育てする共同養育を実践しているパパのインタビュー。今回は相手を変えるのではなく、自分が変わる。ご自身の考えを変えることで、相手との関係が変わり、お子さんとの関係も良好になったというパパにインタビューしました。
―まず、離婚までの経緯を教えてください。
ひとことで言えば「価値観の違い」です。主に育児に関することでの揉め事が多くありました。自分も仕事をしながら育児をやってきたつもりではいたのですが、妻はもっと育児に参加してほしい、もっと手伝ってほしいという思いがあったと思います。その溝がなかなか埋まらなかった。
飲食店で調理師として働いていた頃、本当に忙しくて子育てに全然参加できていなかったんです。そのため、勤務時間が安定で、土日も休める給食会社に転職して、元妻の実家近くに引っ越ししました。そこでは、保育園への送り迎えや掃除・洗濯・食事の用意なども以前よりはできるようになっていました。そんなふうに自分では育児に協力していたつもりではありましたが、揉め事は収まることはなく、元妻が実家に帰ることが増えていき、子どもふたりも行ったり来たりという感じの生活になっていきました。
あまりに喧嘩が多発することで、「このままでは子どもにもよくないので、次に喧嘩したら離婚しよう」という話し合いがありました。そうすることで喧嘩しないようにお互いが思いやれるかな、と。ただ、やはり喧嘩が起きてしまったんです。そこで「やっぱりふたりでいることは無理だね」と、両者が合意しました。
ただ、その頃は子どもと会えなくなるなんてことは全く考えていなかった。離婚しても夫婦の関係がなくなるだけで、子どもたちとの関係は(今の別居状態と同じように)自分たちの間を自由に行き来できることは変わらない、と思っていました。
―その後、どのように進んでいったのでしょうか。
その後は調停となりました。財産分与や養育費については算定表などに沿って取り決め、親権についても子どもたちとの関係は変わらないことに疑いの余地もなかったので、日本では母親が一般的ということで争うことはありませんでした。面会回数については、別居中ではとくに意識していませんでしたが、書面にするために必要なのでとりあえず週1回、という薄い根拠から月4回の取り決めになりました。
それがわずか1カ月後に履行されなくなり、程なくして相手から面会交流調停が申立てられました。子どもへの虐待が判明したという(私にとってはあり得ない)理由で再調停となったため、子どもたちと全く会えなくなってしまいました。調停中も子どもたちは近くに住んでいたし、正直待ち伏せしたりもしたかった。でもそこは会いたい思いをぐっと我慢して、決められたことをきちんとしよう、と。離婚前には思いもよらなかったことで精神的にも本当につらい時期でしたが、当事者団体のケアサポートには本当に助けられました。
そして2度目の調停でまとまった条件は、月1回2時間、第三者機関の付き添い型、というものでした。回数や時間の少なさだけでなく、わずか1カ月後の再調停やその理由なども加わり、最高裁まで戦いたい気持ちでいっぱいでしたが、調停中に1度だけ裁判所内で実施された試行面会での子どもたちとの交流が忘れられず、理不尽な想いを抱えつつも合意することにしました。しかし、そうと決まってからは、いかに月1回2時間の子どもたちとの時間を充実したものにしていこうか、ということに考えを集中させていきました。今度会う時は、手づくりのお菓子やお弁当を持っていこうとか、子どもが喜ぶことを想像しながら実施していきました。そうすると、自分自身も楽になっていったんです。
―月1回だった面会がその後どのように増えていったのでしょうか。また増えた理由はなんだと思いますか?
しばらくの間は、お互い近所に住んでいるにも関わらず、わざわざ第三者機関まで出かけていくという面会を行っていたのですが、ある日、元妻と子どもたちが引っ越ししたため、居場所が分からなくなりました。また会えなくなるのでは、という不安もよぎりましたが、第三者機関のサポートのおかげで月1回の面会は守られていました。
担当者から薦められて、面会時においては、当時明石市が作っていた面会養育手帳というものを利用した交換日記のようなやり取りもありました。元妻は面会までにあった子どもたちに関する出来事などを、私は面会時での子どもたちの様子を、同じ手帳に書き記していきました。そのようなやり取りなどを通して、放っておけば途切れてしまった関係をつなぎとめていただくなど、第三者機関の担当者には大きく助けられました。
第三者機関でのサポート期限は1年間だったのですが、その時期がきてもサポートなしでの面会には不安がありました。そこで第三者機関でのADRを薦められ、1年間お世話になった担当者に間に入ってもらって、離婚後初めての元妻との直接の話し合いの場となりました。数年ぶりの元妻からは、私に対する頑なな感情とともに、子どもたちに対する愛情も感じられました。ADRでの話し合いの結果からサポートの延長が決まり、付き添い型から受け渡し型を試す、自分たちだけでやり取りをしてみるなど、担当者のアドバイスを受けながら、徐々に第三者機関を利用しない面会もできるようになりました。
その後あるときからは、長女が持っていたキッズ携帯のショートメールで直接やり取りもできるようになり、「また会えなくなるのでは」という不安はなくなっていくとともに、月○回という回数を意識することもなくなっていきました。それからは、私の実家でのお泊まりができるようになったり、(子どもたちの希望でもあった)元妻と子どもと私とで買い物や食事にいくこともできるようになったりと、状況はどんどん良くなっていきました。元妻にとってもさまざまな葛藤があったなかでの面会だったとは思いますが、子どもたちが喜んでくれるために努力してくれたんだと感謝しています。
後編につづく≫
この記事を書いた人
一般社団法人りむすび 共同養育コンサルタント
1974年生まれ。慶應義塾大学法学部卒。自身の子連れ離婚経験を生かし当事者支援として「一般社団法人りむすび」を設立。「離婚しても親はふたり」共同養育普及に向けて離婚相談・面会交流支援やコミュニティ運営および講演・執筆活動中。 *りむすび公式サイト:http://www.rimusubi.com/ *別居パパママ相互理解のオンラインサロン「りむすびコミュニティ」 http://www.rimusubi.com/community *著書「離婚の新常識! 別れてもふたりで子育て 知っておきたい共同養育のコツ」️