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離れていても、自分らしく生きる父親が私にとってヒーローだった

しばはし聡子しばはし聡子

2020/11/11

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イメージ/123RF

さまざまなカタチで離婚後も両親で子育てを行っているママの実体験を記事化したシリーズ。今回は、両親の別居により離れて暮らす父親への思いを語る女性をインタビューしました。

■生まれたときの環境やご両親のことを教えてください。

両親は、年齢が11歳差の夫婦で父はとても自由人でした。子どもはいないけれど一度結婚経験もある人。大正9年生まれで、戦争で満州に行っています。戦争から帰ってきた父はとても家族に大切にされていて甘やかされていたようですが、どこか憎めない人でした。私が生まれた頃は、東中野で雀荘の経営をしていたみたいです。昭和40年に歌舞伎町に場所を移してお店を始めてからは、朝まで営業していたのでなかなか家に帰ってきませんでした。

私が小学生の頃は、毎週土曜日に父のお店に母と一緒に行って1泊するという、週に1回会えるサイクルでした。

 

■両親の不仲はいつ頃からだったのでしょうか。

とにかくモテる人だったので、私が生まれて生後1週間のとき、なんと愛人宅に私を連れて行ったらしいんです。その理由は、私が純粋にあまりにも可愛くて見せたかった、というものだったそうなんですが (笑)。ただ、母はそこにはさすがに怒って「これからは私がこの子を育てます!」と言って、そのあたりから父は家に帰ってこなくなったようです。

それでも仕事をする父を、母は手伝っていました。父のお店にも行っていたし、お店にいるときは父も母も優しかったし、父のお友達もみんな優しくしてくれました。高度経済成長期だったからかみんながお小遣いをくれたり、父も日曜日は私の子守りをしてくれていました。私は大人のなかで塗り絵をしたり観察したりして、その時間が好きでしたね。その間、母も自分の時間を持てていたはずなので、父は子育てに協力していたのかもしれません。

中学1年になるまではそんな生活が続きました。生活としては派手だったかもしれません。いい洋服を着て、おいしい洋食屋さんにもしょっちゅう連れていってもらったし、移動はタクシーでしたね。

■その後家族の生活はどうなりましたか。

歌舞伎町のお店がなくなり、原宿に引っ越しました。大家さんからの1年限定、という条件でしたが、そのとき初めて父と母と私の3人でちゃんと暮らした、それはとても幸せな1年間でした。いわゆる「普通の家庭」に憧れていたんです。

私は15歳のときですが、そのあと四ツ谷に家族でまた引っ越しましたが、そこで両親が決定的な喧嘩をしたみたいで。あるときから父親が家に帰らなくなり、母も働き始めたんです。

新宿で新しい仕事を始めた父親はお店で寝泊まりしていました。なので、私がいつも会いに行っていました。高校生の頃からは、父のお店の人手が足りないときは、母も姉も私もみんなで手伝いに行っていました。

その頃母には、生活を支えてくれる方がいて、私はその人のことを「お父さん」と呼んでいました。実の父親の呼び名は「パパ」でしたから。

その方は私たちの経済的支援をしてくれて、毎日家に来ていました。最初はいやだったけれど、面倒見てくれていたし、そのうちに受け入れるようになっていきました。100パーセントウェルカム!ということではなかったですけど、反抗もとくにしませんでしたね。

■その後、両親の関係はどう変化したのでしょうか。

高校2年生のときに母から「パパと離婚しようと思う」、と聞かされました。そのときは母親の旧姓になるのがいやで、嗚咽するほど泣きました。苗字が変わっても親子でなくなるわけではないけど、なんだか父親と離れてしまう気がしてそれがいやだったんだと思います。自分でもわけが分からないくらい悲しかったのを覚えています。そして母親に、「私はパパのところに行く!」と言って父親の元に行きました。母は悲しい顔をしていましたね。

でも結局父は、母の元に戻るように私に言いました。あのときの感情も言葉に現わせないけれど、脱力感にちょっと近かったと思います。だからといって父を嫌いになったわけではないですよね。そして、結局両親は私の願いを聞き入れてくれて、離婚はしないでいてくれたんです。母は29年間ずっと一緒に暮らしていたし、特別な存在ですね。

■ご自身も離婚されていますが、どういう経緯でしたか。

2013年に離婚し裁判までいきました。子どもはいませんでしたが、会社を経営していたので会社が子どものような存在で、争ったときはつらかったです。仕事環境も変えなければならず、そこからカウンセラーの資格をとり、その後ファイナンシャル・プランナーの資格もとりました。人生のどん底でしたが、仕事をするうちに自信を取り戻しました。

■最後に子どもに会えない状況に悩まれている方にメッセージはありますか。

お子さんに会えないことに胸を痛めている方にお伝えしたいのは、(会う)回数じゃない、ということ。父親って特別な存在なんです。むしろ会わない方が、価値が高まることもあります。私は娘の立場でしたが、それは男の子でも一緒だと思います。会えないからこそ濃密な時間を過ごしたときにいい思い出が残る。だからこそ、父親の生き様が大切になると思います。

私の父のように、自分のやりたいことをやって、自分の人生を生き生きと過ごしている方が子どもには魅力的に映ります。高価なモノを買うとかじゃなく、会ったときに元気でいてくれて、父親の価値観でいろいろなことを教えてくれたりする方が子どもにとってはうれしいものです。

大事なのは、自分軸で生きることだと思います。頑張ってもうまくいかないときは、一度すべて手放して、生まれ変わったつもりで新しい人生を生きることがいちばん。子どもにもその子の人生がある、その状況に応じて経験することがあり、そして然るべきときにきっと会えると思います。それまで自分らしく生きることが大切です。

確かに私の父は変わっていたけれど、それが私にはとても魅力的で、父と会うときはどんなボーイフレンドと会うよりドキドキしていました。私はいま、両親におもしろい人生を味あわせてもらったな、と感謝しています。お金で買えない経験をたくさんさせていただきましたから。

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この記事を書いた人

一般社団法人りむすび 共同養育コンサルタント

1974年生まれ。慶應義塾大学法学部卒。自身の子連れ離婚経験を生かし当事者支援として「一般社団法人りむすび」を設立。「離婚しても親はふたり」共同養育普及に向けて離婚相談・面会交流支援やコミュニティ運営および講演・執筆活動中。 *りむすび公式サイト:http://www.rimusubi.com/ *別居パパママ相互理解のオンラインサロン「りむすびコミュニティ」 http://www.rimusubi.com/community *著書「離婚の新常識! 別れてもふたりで子育て 知っておきたい共同養育のコツ」️

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