すべての親へ贈るエール 両親の離婚を娘の視点で切り取ったメッセージ(前編)
しばはし聡子
2021/05/11
イメージ/©︎baranq・123RF
両親の離婚を体験した子どもの立場で、卒業研究では離婚をテーマにした論文を発表した20代の女性にインタビュー。子ども目線で切り取った親の離婚が及ぼす子どもへの影響や、思い、葛藤を話してくれました。
ーーまずはご両親の夫婦仲を子どもながらにどう見ていたのでしょうか。
小さい頃から両親がよく喧嘩しているな、と思って育ちました。私自身は、そんな両親をおとなしく見ているような子どもでした。一方で、小さいときの私は頑固でプライドが高く、よく泣く子だったみたいです。
母が主に育児をしていて、父は仕事が忙しくて子育てにそこまで協力的ではなかったと思います。ただ、親子関係は別に悪いわけではなかったと記憶しています。
両親は、ふたりだと黙っている感じで、ほとんど会話を交わしていなくて、でも話をすると揉める、というような感じでした。弟が野球をしていたので、それには両親ともについていったりはしていたのですが、必要最低限しか話していなくて、話すと揉める、の繰り返しのような感じでした。
食卓はみんなで囲んだことはほとんどなく、外食のときぐらいしか4人で食事をすることはなかったです。普段は父の帰りが遅かったので、私と母と弟3人で食事をして父は別という感じでした。
ーー離婚に至った経緯は何かきっかけがあったのでしょうか。
頻繁に喧嘩することはずっと続いて、私が高校2年生の冬、寝ようとしたら親が喧嘩しているのが聞こえたんです。そのときは「またしているな」ぐらいにしか思っていなかったのですが、そのうち喧嘩がエスカレートしていって。翌日にまた喧嘩をしていて。父が母に「出ていけ!」と言って、母は「出ていくわ!」といって、何も持たずに出て行ってしまったんです。そうなる以前に母から「離婚するかも」とは言われていたのですが、それが突然きて突然出て行ってしまった、という感じでした。
ーーその後、お母さまは帰ってこなかったのでしょうか。
自分の荷物を取りに2、3回は帰ってきましたね。そのときには会話もしたりはしたのですが、荷物を持ってすぐ出て行ってしまって、帰ってこなかったですね。どこにいるかも教えてはくれなかったです。ただその後に戸籍謄本を見て、今は分かっているんですが、いまだに母の口からは直接居場所は聞いていないですね。ただ、母とのやり取りについては、LINEは頻繁にしていて、半年に1回くらいの頻度で会っています。
母も何かあれば連絡をくれますし、お誕生日とかお正月とかには連絡をくれる感じです。
ーーお母さまが出て行ったときの心境はいかがでしたか。
あまりにも突然過ぎた感じで。受け入れられない期間が続きました。私はお母さんっ子だったので。父は弟のことをすごく可愛がっていて、私のことは「お母さんと似ているからな」という感じで否定的に言われていたこともあって、3人での暮らしに不安もあったし、母のところに行きたかったな、って思いがありました。
でも、母からも「お父さんと似ている部分が嫌い」って言われたことがあったので、根本的には両親は私を愛してくれたのは分かるけど、冗談だったとしてもその言葉がずっと心に残っていました。小さいときに私がよく泣く子だったので、迷惑かけたこともあったから、母もひとりになりたかったのかなって、自分を納得させていました。
ーー両親の不仲について弟さんと話したことはありますか。
まったく話さなかったですね。おそらく弟もいろいろ感じていたと思います。でも、口にはお互い出さなかったものの、お互いその存在がいるだけで助かってきた部分があったと思います。お互い支えになっていたという感じです。
ーー3人になったその後の生活はどうでしたか。
父は仕事、弟は部活で忙しかったのですが、それぞれできるときに洗い物をしたり洗濯をしたり、3人で協力してやっていました。両親が離婚した翌年には私が大学生、弟は野球部で高校生になって、朝が弱い弟を私が起こさないといけなくて、それができないと父に怒鳴られることがあり、あのときはミニお母さんという感じの役割があったのでつらかったです。
ーーその後留学されていますが、どうして留学をしようと思ったのでしょうか。
ミニお母さん状態というか、正直3人での暮らしがきつくて、一度家族と離れたいという思いがあったのと、海外に興味があったことですね。留学に対して父は好意的に応援してくれました。期間は7カ月間。私が大学2年生のときにフランスに留学させてもらって家族と距離を持ったことで、お互い親子の関係について考えられたというか、そこから父との関係はよくなりました。当時は弟も心細かったかもしれませんね。
ーー留学から帰ってきてから、ご自身に変化はありましたか。
留学先ではフランス語を学ぶことを第一の目的にしていました。日本に帰ってきてからは、刺激がなくなったことが大きく、人生に生きがいを感じなくなっていきました。大学のゼミ活動でも、フランス語のゼミに所属していてフランス語を学ぶ内容だったのですが、周囲の子がフランス語が分からない子が多くて、私一人がやらざるを得ない状況があったり、就活や将来への不安が大きくなっていって、うつ病になってしまいました。
学校もいちばんに行くようなタイプだったのに、遅刻や欠席が増えていったり。留学から帰ってきてからそんな調子がずっと続いていてほぼ無気力という感じで。一年ぐらいそのまま過ごしていたんですが、もう無理だと思って誰にも言えずひとりで病院に行きました。
ーーご両親や家族はその異変に気付かなかったのでしょうか。
最初、家族は何も気づいていなかったと思います。きつくなって精神科に行ったときに、病院の先生に「精神的な病気は、話したくない気持ちも分かるけど周囲の協力もないと回復するのが難しいよ」と言われ、それで父に初めて話したんです。
父に言わなかったのは、心配かけたくなかったし、うつ病になることって恥ずかしいことでも悪いことでもないですけど、プライドが高いので打ち明けるのがちょっと難しかったというのもあります。それまでの私は、明るく悩みのないような子だったので、うつ病になったことを自分でも受け入れられない状況でした。
父は、あまり心配しすぎずに、ちょっと離れて見守ってくれている感じでした。たまに私の好物を買ってきてくれたり、サポートしてくれていました。
弟は、私がうつ病って言ったら驚いていたけど、動揺している表情で、特に何も言わずに、でも絶対に心配はしてくれているという接し方をしてくれました。
しんどいときに頼れる人や相談できる人がいなかったのが大きかったと思います。友達の前では明るくいたいし、できれば家族に相談したかったけど、それがなかなかできなかったのが大きかったと思います。
一方で母には言えませんでした。未だに知らないと思います。
ーーご両親がどういう対応してくれたらよかったと思いますか。
親が、という前に、まず自分が親に相談したらよかったと思います。ひとつあるとすれば、昔から悩み事は母にしてきたので、母が近くにいてくれたらよかったな、とは思いますね。LINEではいつでも連絡できたのですが、しづらくて。心配かけたくない、という思いが強かったです。
(後編に続く)
この記事を書いた人
一般社団法人りむすび 共同養育コンサルタント
1974年生まれ。慶應義塾大学法学部卒。自身の子連れ離婚経験を生かし当事者支援として「一般社団法人りむすび」を設立。「離婚しても親はふたり」共同養育普及に向けて離婚相談・面会交流支援やコミュニティ運営および講演・執筆活動中。 *りむすび公式サイト:http://www.rimusubi.com/ *別居パパママ相互理解のオンラインサロン「りむすびコミュニティ」 http://www.rimusubi.com/community *著書「離婚の新常識! 別れてもふたりで子育て 知っておきたい共同養育のコツ」️