「全米でいちばん住みたい都市」のDIYリノベーションは日本とこんなに違う!
馬場未織
2017/11/09
週末田舎暮らしを通じて、見えなかったことが見えてくる
(c) Mathias – Fotolia
週末田舎暮らしをしていると、それまで見えなかったことが見えたり、気づかなかったことに気づいたりするようになります。
というのも、田舎暮らしでは、普通に都市生活を送っていたら関わりようのない部分と、直に接する機会がたくさんあるからです。
たとえば、豊かな自然環境に触れるだけでなく、その自然の壊される様や、食べ物がつくられる現場、それが市場に出るまでのプロセスなどを知ることができます。また地域に足りない公共サービスと、それを地縁がどのように補い、暮らしを支えているのかを体感することもできます。
そうすると、都市生活では「当たり前」だと思っていたことがどう成り立っているのか(あるいはいずれ成り立たなくなるのか)という裏舞台を見ているような感覚に襲われることも。
当たり前のことに違和感を持ち、違和感から深く考えさせられることも多くなります。
ポートランド視察で得た気づき
さて、先日、主宰するNPO法人南房総リパブリックのメンバーと共に、ポートランド視察に行ってきました。
南房総市にある廃校の利用事業計画を進めていて、その参考事例を巡る視察だったのですが、目的からちょっと距離のあるところにさまざまな気づきがありました。
目的からぽーんと離れてみると、一段といろいろ見えてきます。
アメリカのオレゴン州ポートランドは、「全米でいちばん住みたい都市」に選ばれ続けたことで、10年ほど前から注目されています。
でも今回わたしが触れるのは“ポートランドって素敵!”というだけではちょっとおさまりきらない、そしてたわいもない、いくつかの体験です。
週末田舎暮らしでの気づきの拡大版のようなものだな、と感じたそれらを、お伝えしようと思います。
<体験1>ストローはいらない文化
カフェで飲み物をオーダーすると、「紙コップにしますか、マグにしますか」と聞かれますよね。その言葉を聞くとわたしは最近、反射的にポートランドのジューススタンドのことを思い出します。
それは、私道の道端に据えられた、ワゴンを改造したジューススタンドでした。
フレッシュジュースが飲めるというので朝立ち寄ったところ、それほど人通りのない場所なのにひっきりなしに客が訪れている様子でした。車のなかにはジュースをつくっている若い男の人がひとりだけ。
体に良さそうなベジタブルジュースをオーダーすると、少し待たされた後にガラスのコップに入って出てきました。合理的に考えれば、使い捨てのプラスチックコップにするところでしょう。持ち帰ることができるし、洗う手間がかかりません。
「うーん、ここで飲んでいかなければならないのかあ、まあしかたない」と置いてあったストローストックからストローを取り出して持っていくと、一緒にいた友人から「あれ? 馬場さん知らないの? ストローは使わない、という文化があるんだよ」と、教えてもらいました。
それでふっと周りを見てみると、たしかにほかの誰もストローを差していません。日本では、飲食店で出る冷たい飲み物にストローを差すのは当たり前になっていますよね。それで何も考えずに(特にどうしても必要というわけでもないのに)ストローを自然に手にしてしまった自分に、ハッとしました。
その後、ポートランドのさまざまなカフェに行き、さまざまな飲み物をオーダーしましたが、何も言われずにストローがついてきたことはありませんでした。「意識高い系」のお店だけがそうしているというわけでは、なかったのです。
あとで調べてみると、アメリカでは、リサイクル用のゴミ箱に入れられることがほとんどないプラスチック製のストローを「使うかどうか問われたら、使わない」という選択をするように消費者に促す動きがあることを知りました。
ウミガメの鼻に詰まったストローを科学者が取り出すという動画がきっかけで広がった動きのようです。
アメリカでは1日5億本ものストローが使われていて、それが海洋プラスチックごみとなり、その絶妙なサイズから海洋生物の窒息死や魚の誤飲につながっているとのこと。
もちろんストローは全体のプラスチックごみのなかではわずかな量ですが、「まずストローから始めよう」と呼びかけられているそうです。
友人に指摘されたとき、わたしは言いようのない恥ずかしさを感じました。それは、必要のないものを習慣的に手に取る無自覚に対してと、「そんなことやってもどうせそんなに意味はないだろう」とどこかで諦めている自分に対しての、ふたつです。
実際、ポートランドでは、その小さくても正しい方向の選択が定着している様子でした。だとしたら、ほかのものも同じように「実はいらないよね」という考えを定着させることができるはず。
その可能性を、わたしはシャットアウトしていたんだなあ、と気づいたのです。
ビニール袋がない、プレゼント用包装がない
同様に、買い物をしても、いわゆる“レジ袋”に入れられることがまったくない、ということにも改めて感じ入りました。買ったものは、そのまま渡されるか、紙袋に無造作に入れられて終わり。友人へのおみやげを買っても、せいぜい割れモノに紙の緩衝材が巻かれる程度で、見栄えよく包装されることもありません。
「お客さまに失礼のないように」とか「お客さまに喜ばれるように」が最優先の日本の現状とはだいぶ違います。
これも知りませんでしたが、カリフォルニア州、フロリダ州、ミズーリ州、アイダホ州、アリゾナ州、ウィスコンシン州、インディアナ州では、スーパー、日曜坂品店、薬局、スーパーコンビニ、酒店などでは無料のレジ袋配布を禁止しているそうです。
加えてサンフランシスコでは発泡スチロールのカップや容器、梱包材、ビーチ用玩具などに使われるポリスチレン類が禁止されているとのこと。
翻って日本の現状ですが、スーパーではノーレジ袋が浸透してきているものの、コンビニでレジ袋が有料になる日はまだ見えてきていません。さらに、意外においしいコンビニのコーヒーや、発泡スチロールの容器に入れるおでんを「容器持参で買う」ことになるような未来は、いつ来るでしょうか。
面白いのは、使い捨てのものがないことが普通の場所に一定期間いると、俄然こっちのほうが心地いいや、と思うようになることです。ビニール袋なんて、なくても生きていけるしね。
どう考えても、「お客さまの都合」より「地球の都合」を優先させる判断のほうが健やかですし、それがあるまとまったエリアの判断であることに大きな安心感を持ちます。
土に還らないものを、だらだらと使い捨てていく日常の違和感のなかに生きるより、「やっぱりみんなでやめちゃいましょう!」と決めてそうするほうが、よほど気持ちがいいことなんだなあ、と気づきます。
リビルディングセンターでは、ゴミ同然のものもリサイクル
こうした小さな取り組みと、実はひとつながりの施設を視察しました。
DIYやリノベーションなどに関心がある人たちの間で話題沸騰の「リビルディングセンター」です。日本でも昨年、長野に「リビルディングセンタージャパン」ができており、その取り組みの素晴らしさや影響力の大きさから、元祖リビルディングセンターも注目されていった、という流れだと思います。
リビルディングセンターは建材をリサイクルする事業を行なうNPO団体が運営しており、解体現場などで出た廃材を買いつけ、仕分けをして売り出しています。
建材といってもいわゆる素材としての木材だけでなく、ドアやサッシ、便器や洗面器、シンク、動くかわからないような洗濯機、乾燥機、食洗器、照明器具、建築にまつわるさまざまな小さな部品など、すべてです。階段も、ソケットも、蝶番も売っていました。
それはそれは膨大な量のリサイクル品があり、わたしたちはちょっとした衝撃を受けました。それらは、解体時のほこりを被ったままだったり、水垢がついたままだったりして、明らかに解体現場からそのまま持ち込んだ状態でした。
リサイクル品とはいえ売り物ですから、最低限ほこりを払ったり、ちょっと磨いたりして売り物に仕立てていくプロセスがあり、初めて店頭に並ぶものになるものだと思っていましたから。
同時に、これらは誰がどうやって集めてきたんだろう、そして誰がどのように使っていくんだろう、と想像しました。これらの、ゴミといってもいいようなものの価値を見出して使う人たちは、よほどDIYスキルや目が高いか、もしくは…と。
“リサイクル品を使ってDIYで家をつくる”という風景を思い浮かべたとき、わたしはとっさに「暮らしにまつわるスキルが高い」「こだわりがある」「リテラシーがある」人たちをイメージしたんですね。
精神や時間やお金にむしろ余裕がある人たちが、先行してつくっているのが日本におけるDIYリノベーションの文化だと、知らず知らずに定義していたのでしょう。
だからかもしれませんが、ポートランドのリビルディングセンターに視察に行く、と言うと、(すでに多くの人たちが訪れてはいるとはいえ)「わー素敵、いいなあ!!」とうらやましがられ、SNSなどで写真をアップすると「すごーい!宝の山だね!」とポジティブな反応をたくさんもらいました。
でも、わたしはその場に立ち、ワクワクするというより、呆然としました。一緒に行ったメンバーも同様だったと思います。
これは、DIYというライフスタイルを謳歌するためのワクワクする素敵な取り組み、といった嗜好性からできたものではなく、社会的必然としてできた施設であることを直感したからだと、振り返ります。
リビルディングセンターがもつ、ふたつの存在意義
後で調べたら、解体現場に携わる人のなかにはホームレスが多く、彼らの仕事になるようにとつくられた仕組みであることがわりました。そして、新品を買うゆとりがない人たちが、ここで安価な廃材を買い、DIYで家を直す、という需要に応えているということも知りました。
リビルディングセンターがNPOによって運営されている所以もそこにあるのでしょう。
建材をリサイクルして使っていくという目的と同時に、ホームレスや経済的に豊かではない人々を支援していくという目的を叶えているこの施設の存在意義は非常に大きく、むしろ想定外の感銘を受けました。
一方で、そうした社会問題への向き合いについて、日本には部分的にしか伝わっていないことを知りました。
そういえば、ポートランド在住の友だちに現地で逢ったとき、「明日、リビルディングセンターに行くんだ」と伝えたところ、「え? あのトイレとかが並んでるリサイクル屋さん? どうしてわざわざ?」とキョトンとされたという1コマもありましたが、現地を見てそれはそれでうなずけたという次第です。
DIYやリノベーション、リサイクル、といった循環型のスタイルが、(オシャレであることが前提となっている)感度の高い文化としてではなく、暮らしを下支えする部分を本質的に改革する文化として日本に根づくためには、どんなプロセスが必要なのだろうか。
「素敵」というものではないことを「素敵」に見せることで導入しやすくするという方法以外に、やりようはないだろうか。そんなことをそれぞれが悶々と考える帰路のわたしたちは、感想を言い合うでもなく、とても言葉少なだった記憶があります。
ポートランドでは、街全体が同じ価値観を共有している
9月はじめにポートランドに行ってから、2カ月あまりたちました。
なかなか言語化できなくて、報告めいたことをするのはこの記事が初めてです。
ポートランドが「全米でいちばん住みたい都市」に選ばれている理由は、都市と自然の近さであったり、街の居心地の良さであったり、アメリカではめずらしく歩いて暮らせたりと、さまざまな理由があげられていますが、それ以前に、この街には背骨が1本通っていると感じます。
ストローからリビルディングセンターまで、持続可能な社会をつくろうとする意志です。
「街」という多様な人を抱えるまとまりが、全体として大きく同じ価値観を共有し、それぞれの課題の解決に向けて動きをつくっている。それが、「居心地の良さ」の源なのではないかと感じました。
自身が浸かっている日常から一歩出たところにある気づきや違和感と向き合うのは、時にしんどいこともあります。その根幹にはたいてい、「こうなっちゃってる」と「こうなるべき」のせめぎ合いがあり、それを直視することはストレスでもあるからです。
ただ、その食い違いを静かに見つめ、できることなら少しずつ筋を通していく。そうすることで、心に曇りの少ない、本質的な部分で快適だと感じられる暮らしがつくられていくのだと思います。
この記事を書いた人
NPO法人南房総リパブリック理事長
1973年、東京都生まれ。1996年、日本女子大学卒業、1998年、同大学大学院修了後、千葉学建築計画事務所勤務を経て建築ライターへ。2014年、株式会社ウィードシード設立。 プライベートでは2007年より家族5人とネコ2匹、その他その時に飼う生きものを連れて「平日は東京で暮らし、週末は千葉県南房総市の里山で暮らす」という二地域居住を実践。東京と南房総を通算約250往復以上する暮らしのなかで、里山での子育てや里山環境の保全・活用、都市農村交流などを考えるようになり、2011年に農家や建築家、教育関係者、造園家、ウェブデザイナー、市役所公務員らと共に任意団体「南房総リパブリック」を設立し、2012年に法人化。現在はNPO法人南房総リパブリック理事長を務める。 メンバーと共に、親と子が一緒になって里山で自然体験学習をする「里山学校」、里山環境でヒト・コト・モノをつなげる拠点「三芳つくるハウス」の運営、南房総市の空き家調査などを手掛ける。 著書に『週末は田舎暮らし ~ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記~』(ダイヤモンド社)、『建築女子が聞く 住まいの金融と税制』(共著・学芸出版社)など。