週末田舎暮らしが解消する!? 都会の一途な暮らしの生きづらさ
馬場未織
2017/09/14
一途であることは美しい?
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あなたなしではやっていけない!
この道一筋、何十年!
骨を埋める覚悟で!
…ああ、“一途”って、なんて美しいことでしょう。
ひとところに重ねられるであろう思いや経験は力強く、信頼できて、他のものと比べたり、奪い合ったり、争ったりすることから解放される安心感もあります。
・あなたなしではやっていけない! ←頼られている証拠。やりがいもある!
・この道一筋、何十年! ←長年打ち込んでこそ得られる技があるはず。
・骨を埋める覚悟で! ←他に行かないなんて信頼できる!
そう、世間的には、“一途”とは、間違いなく良きことを示しています。
一途は終わりの始まりかもしれない
一方で、暮らしや人生にはさまざまなことがあり、それらに柔軟に対応しようとしたときに、“一途”すぎると苦しくなったり、続かなくなったりする局面もありますよね。むしろ、ひとところに人やコトを縛ることによる弊害すら生まれることもあります。
「中心人物がいなくなったら立ち行かなくなる」「その場所でうまくかなくなったら生きていけなくなる」など、実は、“一途”とは、そのハシゴを外されると途端にクライシスが訪れることを意味しています。
「それでもいいの、あなたさえいれば…」という恋愛の話なら美しいなとも思いますが、意外とその理屈で、暮らしのさまざまなことが押し切られているのが現実だったりしますよね。
個人的な経験で恐縮ですが、最近、「一途って、終わりの始まりかな」と感じたことがあったので、以下にあげてみます。
<ケース1>ワンオペ家事からの脱出
先日、わたしは子どもを産んでから初めて、家族と離れて海外出張へ行きました。実に16年ぶりのことです。
これまではせいぜい1泊の出張で、それもごくたまにある程度。こどもが3人いて毎日膨大な家事がありますから、長く家を空けることなど考えもしませんでした。ほとんどワンオペで子育ても家事もしてきましたから、わたしがいない状態で家庭運営が成立するとは思えなかったのです。
なぜ、ワンオペかというと、それが一番楽だから。
確かに日々は忙しいですが、分担した相手が思うように動いてくれないというイライラを抱えるよりは自分がやってしまったほうが精神衛生にいい、という、ある種の怠け心がそうさせていたと言えます。
今回、行くことを決断したのは出張の3カ月ほど前。それから先は、ひたすら家事分担のシステムづくりに勤しみました。
個性に合った仕事を割り振り、手ほどきをしながら少しずつ任せていきます。洗濯はあなた、ゴミ出しはあなた、ネコの世話はあなた、朝の食事と片付けはあなた、夜の食事と片付けはあなたね。
別に、わたしが仕事の合間にできていることを複数人で分割するのだからたいした話ではないはずですが、慣れていないことに人はストレスを感じますからね。十分に慣らし運転をする時間を持たないと、わたしが不在の間に妙なトラブルが起き、「やっぱりママがいてくれないと大変」なんていう世論ができたら大変です! 笑。
そんなこんなで、5日ほど不在にしましたが、それなりに何とかなっていたようです。夏休みが終わり、新学期が始まるという微妙な時期にもかかわらず、トラブルなく過ごしていたのはよかった。「あー、ようやく任務から解放される」と、ママ代行を自負していた長女は涙目でしたが(ふふふ。ママは大変なんだよ)。
“家事大臣がいないと家がコケる”という事態は、海外出張に限らず起こりうること。
たとえば、仮にわたしが怪我や病気で入院するようなことだって、十分に考えられるのですから。これまでは、「だからちゃんと人間ドックを受けて、いなくなるようなことがないようにしよう!」とばかり思っていましたが、誰かが欠けると機能不全になるような家庭運営は、実は健全なものではなかったのかもしれないなあ、と反省しました。
一番小さな組織である“家庭”であっても、それを「自分さえいれば!」とマッチョに乗り切ろうとするのは、言い換えれば、運営システムづくりを怠っているということだったと気づいたのです。
男女の区別なく子育てや家事をしよう、という話はジェンダーの話題のなかで出がちですが、本来は家族を構成する誰もが発動できる状態にあるべきです。ただ、そのシステムをつくるのは、実はけっこう手間なことです。
一度つくられてしまえば、これほど心強いことはないんですけどね。
<ケース2>店主がいなくなったら、続けられない店
家庭ならまだしも、たとえば店舗運営などを考えると、システムづくりは店の存亡に関わるものだと言えることがあります。
この夏、わが家に馴染みのある八ヶ岳方面に旅行に行きました。
登山を楽しむ合間に、「八ヶ岳といえばここだよね」という好きなお店を訪れ、小さな宿に泊まりました。
宿泊は、夫婦ふたりでやっているペンション。
昔ながらの山小屋スタイルで、朝夕食も丁寧に手づくりされたもの。奇をてらったおもてなしはありませんが、長いことやってきて安定しているスタイルは旅行者にとっては心休まるものです。ほとんど宣伝はしていないにもかかわらず、いい時期ということもあり、客室は満室でした。
ご主人はもうすぐ70歳といったところで、「体が動かなくなるまでこのペンションを続けたいもんですねえ」と言っておられました。その後はきっと、土地建物を売却するなどして引退するのでしょう。建物の雰囲気もよく、実に居心地のいいペンションなのに、と心寂しく思わずにはいられませんでした。
<ケース3>店主がいなくなっても、続く店
八ヶ岳からの帰り道に食べたカレー屋さんは、1978年創業という歴史あるお店でした。
独特の世界観をもつこのお店はいつも長蛇の列。それを知っていたわたしたちは、17時開店前から並んで、するりと入ることができ、懐かしさにぐるっと店内を見渡すと、数年前とまったく変わらないインテリアでほっとしました。変わらないものがあるって、嬉しいものだな、と。
ただ、いつもホールに顔を見せていた高齢の名物店主の姿がありません。ホールの女性に「今日は、オーナーはどうされましたか?」と聞くと、「それが、一昨年亡くなったんですよ」とのこと。
なんと、そうなんですか……と、悪い予感が当たってしまったことにしばし沈黙。
それでもこのお店は、店主不在を感じさせない強さがありました。
ひょっとしたら味が変わってしまったかなと思いきや、「これだ。この味が食べたかったんだ」と思わず目をつぶる美味な欧風カレーのまま。遠路ここまで食べにくる価値があるお店だなあと、改めて心惹かれた次第です。
店主の趣味を反映させた、いや、趣味そのもののお店なのに、そこには店が引き継がれていく大きな流れができていて、これからも八ヶ岳に来たらここに寄れるね、と安心しました。おそらく店主が元気なうちから、レシピや店の哲学が従業員と共有されていくプロセスがあったのでしょう。
店主の一代限りで終わり、というのも潔い形かもしれませんが、実はそれは、客本意な考え方ではありません。店のファンにとっては、その店がなくなることほど悲しいことはありませんから。
学校だけで生きる子どもたち
一途な方法だけで暮らしを成り立たせていくことには、その逃げ場のなさから追い詰められていくというリスクが伴います。このことについては、昨今さまざまな局面で認識されつつあります。
9月1日は「子どもの自殺が最も多い日」だということをご存知でしょうか。
学校だけしか居場所がないという“一途”な状況は、管理する立場からすると都合がいい。しかしながら、それが当たり前、となった世の中の自覚なき生きづらさは、放っておくことのできないものだと思われます。
9月1日の子どもの自殺は、どれだけ不自由な環境を子どもたちは生きているというのかということの証左にほかなりません。
授業が終わったらそのまま、その建物のなかで部活。
管理する側は楽ですよね、家にいなければ学校、チェックがシンプルです。
ただ、1日のうち学校に10時間以上いる子どもは、残りの14時間で他の居場所をつくることなんてできません。大多数の生徒がそうしているなかで、「わたしは、ほかに居場所があるから」と言えるような強い子はきっとそもそも悩むことなどないでしょう。
でも、人生のほとんどを一緒に生きる友達のなかで、同調圧力に押しつぶされそうになっている子はきっと、その環境から出ることより、そのなかで生き抜くことしか考えられないのではないかと思います。
ひとところにいなければならない環境は、うまくいかなくなった途端に過酷です。
うまくいっているとしても、学校という場所に一途な子どもたちはほとんど社会生活をしていませんから、「将来どんな仕事がしたいか」なんてそうそう思いつきはしませんよね。実感も経験もないわけだから。それなのに、「目標を持て」だなんて言われちゃってね。
うちの息子が、「水泳のコーチか釣り師になりたい」というのもまあわかります。それしかやってませんから!
複数の拠点をもつことの健やかさ
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それでは、暮らしの拠点を複数持つ“二地域居住”は、どうでしょう。
わたし自身にとってはごく自然なライフスタイルですが、言ってみればまだまだ世間的には「別荘とどう違うのかわかりませんけど…」といった程度の認知度だと思われます。
ふたつも拠点を持つ必要なんて、特にないよな、一カ所で十分だよな、と。
ただ、暮らす場所を二カ所持つことの“健やかさ”は、こうしたほかの事例からも十分推察できることだと、わたしは思います。
ひとところの常識や関係性しかない状態に身を置くと、それが健全か不健全かを確認することすらできません。まさに、学校に行く子どもたちと同じですね。そこが合っていればいいけれど、合わなかった場合、自分を責めたり、膨大なストレスを溜めたりすることになる。
「公園デビュー」についてのあれこれが、ママ雑誌にたくさん書かれているのも、追い詰められた日常の表れではないかと考えられます。
その場所に根ざした悩みは、物理的に距離を置くことで冷静に見つめることができるものです。ママ友の一挙手一投足が人生のすべてになる前に、「まあ、そういう人もいるよね」と思えるゆとりを持って応じることができれば、クオリティオブライフは格段に違ってきますよね。
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日々のマルチタスクがうまくコントロールできるようになる
また、どちらかというと問題ばかりが目の前に積み上がっていくように見える日常のなかに、実はとてもキラキラした部分があるよ、ということに気づけるときもあります。
ひとところに骨を埋める一途さが見られないと「地域への愛情が薄いんじゃないの?」と思われがちですが、暮らす場所を二カ所持つことで、実は、見失いがちな「よいところ」を常に感じて、魅了され続けることができるとも言えるのです。
さらに、“複数の拠点を持った暮らしづくり”とは、すなわち“システムづくり”だと言うことができます。エンドレスに続く日常を、区切り、切り替え、あっちの拠点とこっちの拠点の暮らしを同時に回していく、というシステムです。
このシステムは実はとても便利なもので、同様の考え方で日々のマルチタスクがうまくコントロールできるようにもなります。
暮らしのなかにごっちゃに押し込められていたタスクに優先順位をつけて整理できるようになり、本当に必要なモノやコトや関係は残っていき、不必要なものは必然的に消滅していきます。
それは、フリーアドレスのオフィスを利用する時の身支度にも似ているかもしれません。軽やかさを確保するために、もやっとした荷物を減らす努力をするわけです。
一途な姿勢で、幸せに暮らしをまっとうできれば、それがベストかもしれませんね。
ただ、まっとうできる確率は、どれほどあるでしょうか。
オルタナティブを持つことは“逃げ”でも“ずるいこと”でもありません。個人や組織を健やかに存続させるために必要なリスクヘッジ、または換気システムです。あってもなくてもいいものというより、「あるべき」だと考えます。
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この記事を書いた人
NPO法人南房総リパブリック理事長
1973年、東京都生まれ。1996年、日本女子大学卒業、1998年、同大学大学院修了後、千葉学建築計画事務所勤務を経て建築ライターへ。2014年、株式会社ウィードシード設立。 プライベートでは2007年より家族5人とネコ2匹、その他その時に飼う生きものを連れて「平日は東京で暮らし、週末は千葉県南房総市の里山で暮らす」という二地域居住を実践。東京と南房総を通算約250往復以上する暮らしのなかで、里山での子育てや里山環境の保全・活用、都市農村交流などを考えるようになり、2011年に農家や建築家、教育関係者、造園家、ウェブデザイナー、市役所公務員らと共に任意団体「南房総リパブリック」を設立し、2012年に法人化。現在はNPO法人南房総リパブリック理事長を務める。 メンバーと共に、親と子が一緒になって里山で自然体験学習をする「里山学校」、里山環境でヒト・コト・モノをつなげる拠点「三芳つくるハウス」の運営、南房総市の空き家調査などを手掛ける。 著書に『週末は田舎暮らし ~ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記~』(ダイヤモンド社)、『建築女子が聞く 住まいの金融と税制』(共著・学芸出版社)など。