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最近よく聞く「住み開き」とは?

都会と田舎はどう違う? 住まいのプライバシー感覚と心地よい暮らしのつくり方

馬場未織馬場未織

2017/08/10

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プライバシーの感覚は、人それぞれ違っている


(c) wbtky – Fotolia

みなさんは、住まいに対してどんなプライバシー感覚を持っていますか?

「外からの目線はちゃんと遮りたい、植栽くらいじゃ心許ないからカーテンを閉める」

「オープンなほうが気持ちいい。できれば道まで視線が伸びていたほうがいい」

「自分の行動が外にわかってしまうのは嫌。音も光も外に漏れないくらいが落ち着く」

住宅の居心地がいい、落ち着く、という感覚は“プライバシーの守られ方”と“外への開かれ方”の塩梅によって決まる部分が多いです。

そして、プライバシー感覚は、個人によって本当にさまざまです。

よく、開口部が大きいオシャレなマンションの設計者が、「実際には、ほとんどの窓のカーテンが閉じっぱなしで…」とぼやく話をよく聞きます。

これは、設計者と住み手の感性の違いによって生じたものですよね。

光や風や街の風景が家に流れ込んでくるといいな、部屋のなかの人の気配が街に流れ出るといいな、といった設計者の意図があったとしても、住み手としてはそんなあけっぴろげな状態を心地いいと思えないわけです。

「食事をしているところを見られる」ことに対する意識も人によって違う

自分のプライバシー感覚について、他者との違いを感じることは日常でそれほどないかもしれませんが、ふとしたときに「え? ほかの人は違うの?」と気づくと驚くものです。

たとえば、「食事をしているところを見られる」ことに対しての意識も、人によって大きく異なります。

パリのシャンゼリゼ通りに並ぶオープンカフェのようなお店が、日本の都市でもたくさん見られるようになりました。30年前には日本にはほとんどなかったスタイルです。

一方で、「自分がそのお店にいることを知られたくない」「食べているところを見られるのは落ち着かない」という感覚のお客さんも、地方ではいまでも多いと聞きます。

新しくオープンしたガラス張りのオシャレなカフェを見た地元の人が、「こんな丸見えのところじゃ、恥ずかしくて食べられない」と言っていた、という話も聞きます。

欧米でオープンカフェが多いのは、広い場所や太陽のある状態を好むといった人々の性質や、店が道に拡張することを許容する街のあり方など、さまざまな理由によりますが、日本でもオープンカフェが増えたというのは、「街に開かれた場所で食事をすると気持ちいい!」と人々が気づき、あるいは慣れたことによって少しずつ感覚が変容したからだと言えます。

「見られることが落ち着かない」という感覚は風土や生活文化によるものとはいえ、それは絶対的な感覚とも言えない、ということです。

家のなかにも境界線は存在する

ところで、住まいのプライバシー感覚とは、単純に「住まいの内と外」で分けられているものだと思われがちですが、実は人それぞれ、地域それぞれに特質があることに気づきます。

たとえば、「よほどのことがないと玄関先以外に人は入れたくない」「友人知人でも、招き入れるのはリビングまで」という人がいれば、逆に「リビングにはよく家族以外の人も集っている」という人もいるでしょう。

単純に「住まいの内と外」という境界線だけでなく、住まいのなかにもまた、大事にしたい境界線があるのです。

家族間でも快適な暮らしについての感覚は違っている

また、閉ざされた暮らしが窮屈に感じる人と、オープンな環境では落ち着かない人とがいて、どれが正解というわけではありません。

それは本当に個人に属する感覚ですので、家族間でも違いがあることが多々あります。

夫は自宅を「みんなの寄り合えるオープンスペース」のようにして人を招き入れるのが好きでも、妻は「家族以外の人がいるとくつろげない」と不満がたまる、という話はたまに聞きます。

家の窓回りの状態ひとつとっても、落ち着く状態がみな一緒とは限りません。「昼間は開け放って光を入れたい」「夜も外が見えるほうが気持ちいい」という嫁に対し、「人から見られる状態は不用心」といつでもカーテンを引きたがる姑、という地味な闘いが繰り広げられることも。

感覚の違いについて追求することで幸せはなかなか生まれませんが(笑)、“自分にとって心地よい境界のつくり方”は、“幸せな暮らしのつくり方”と、ある意味同義だと言っても過言ではないでしょう。

以下にいくつか、境界のつくり方の例を示してみます。

あなたの住まいの境界感覚は、どのあたりにあるでしょうか?

<例1>敷地境界線の内側は完全プライベート、外側はパブリック

「敷地境界線の内側=所有地=プライベートエリア」、という感覚は一般的でしょう。

敷地境界に塀や生け垣を回している家が多いですし、さすがにそれを乗り越えて入ってくる人がいたらドキッとしますよね。というか、もし理由もなく敷地内に入る者がいたら住居侵入の罪に問われることになります。

日本は国土が狭く、小さな敷地を「ここは自分の土地」と明確に示すためにブロック塀などでしっかりと区切り主張する必要があった、ということもあり、境界をしっかりと囲い込む家が多いです。

ただ、境界づくりにも個性があり、家の“外側”を向いて花を育てている住まいもよくありますね。これは「境界線に接する外の人たちへの気持ち」の表れでしょう。

境界線で公私を分けていても、要塞のように高い塀を立てた家と、塀を立てずに草花などで緩やかに仕切る家とでは、境界への意識が違うかもしれません。

さらに、田舎では、敷地境界線で家を囲い込まない家が多いです。

たとえば、南房総のわが家は、地目が「宅地」となっている範囲が物理的に囲まれているわけではありません。入ってこようと思えばいくらでも敷地のなかまで入れます。これは、隣家との間隔がたっぷり空いているからだと言えますが、それだけが理由とも言えないところもあります。

…そこで次に、「敷地境界線」よりも広いプライベートエリアを考えてみます。

<例2>自分の住む地域自体が、緩やかなプライベートエリア

これは、田舎の小さな集落によくある状態だと言えます。ひとつひとつの家が安全を守るシェルターなのではなく、集落全体が“相互見守りシステム”として機能することで、自分たちの暮らしを守っているという状態です。

そうした集落には、地域の知り合い以外が侵入してくることは、そうそうありません。そのため、見慣れない都会ナンバーの車などが入ってくるとすぐ気づいて「誰だろう?」と凝視してしまいます。

逆に、こうした集落では家に鍵などかけなくても心配になりません(わたしの家のある南房総の集落がそうです)。

実は以前、家の修繕を頼んでいた大工さんに、わたしたちの不在時に作業をお願いしていたにもかかわらず鍵を渡すのを忘れてしまった!ということがあったのですが、裏のほうから入って作業をしてくださっていました。

「田舎の家は、ぐるっと回れば、どこかしらの窓とか扉が開いているのがフツウなんだよ」と笑って教えてくれたのですが、別のところでも「鍵を忘れた息子が、どこかから入って寝ていた」という話をしていたのを聞いたので、地域全体に安心しきっている暮らし方なんだなあと感心した覚えがあります。

家は当然、きちんと戸締りして(あわよくばセコムにも頼って安全を確保して)、自分の住まいと外とを、プライベートとパブリックな空間に完全に切り分ける生活。そして、家から一歩でも外に出れば、自分も不特定多数のうちのひとりとして街に溶け込んでしまう、という都市的・現代的な生活環境に慣れている人だと、ちょっとびっくりするかもしれません。

また、やや趣が異なりますが、欧米などで見られる「ゲーテッドコミュニティ」もこれに当たります。「ゲーテッドコミュニティ」とは、エリア全体を門(ゲート)を設けた塀で囲み、住人以外の出入りを制限しているという上層階級のコミュニティです。

家も学校も商店もゲーテッドコミュニティ内にあり、生活がここで完結できます。なかにいれば安心して暮らせる、という安全保障を明確に形にしたコミュニティづくりですが、「ゲートの外は信用できない」という排他的な考えが根底にあると言えます。

では、今度は逆に、外との関係を積極的につくっていく住まい方も考えてみましょう。

<例3>住まいのなかにパブリックゾーンをつくる


荏田北の家(設計・ブルースタジオ 写真提供・リビタ)

最近、「住み開き」という言葉がよく聞かれます。

自宅の一部を地域に開放するなどして、友人知人のみならず、見ず知らずの人にも使ってもらえるようにする、という試みです。

「住み開き」のあり方はいろいろあります。

自宅の庭やリビングを、子育て支援の場所として毎日開放している家。

趣味の碁をみんなでしたいと、居間を碁会所として開放している家。

リビングを月1回開放して独居の高齢者が集う場所としている家。

庭やリビングを利用者とともに整備し、空間も体験も地域でシェアしていく家。
自分の家は自分の領域、という一般的な概念を崩して、「一緒に使える部分があったら、みんなも楽しいだろうけどわたしも楽しい」と考えて、住み開いていく。世田谷区では、そうした家を「地域共生のいえ」として支援しているようです。

また、先日訪れたとある郊外の一戸建て住宅は、40段あまりの長い階段のあるアプローチ部分や庭先が、街に開かれるようにデザインされていました。もちろん敷地内ですが、階段の途中にちょっと座って休めるような設えがあったり、門の位置がだいぶ奥まったところに設定されていたりして、主体的に公開空地をつくっているように見えました。


荏田北の家(設計・ブルースタジオ 写真提供・リビタ)

このように、境界をぐっと手前に引き寄せてパブリック部分をつくる住まい方は、街に対して「提供してやっている」というより、「むしろそのほうが住み手がハッピーになる」という考えによるものです。

個のエリアを押し広げる、縄張りを広げる、という感覚とは真逆ですね。

いまよりも住まいを少し開くことで見える可能性とは?

いかがでしょうか。

住まいには、“安全を守る”“資産を守る”といったシェルターの役割とともに、“快適性を守る”という役割があります。この解釈は個々さまざまで、ひょっとしたら家族のなかでも、その感覚にも違いがあるかもしれません。

「閉じているほうが快適だ」という感性も尊重されるべきである、と、ここであえて言っておきたいと思います。

ただ、空間のプライバシーについて考えるとき、同時に、そのエリアの境界や、その先にあるパブリック空間についても思いを馳せるのは、存外に面白いことです。

また、「わたしの家」と境界の内側を守る意識から、ふと「わたしの家のある街」というように“境界の内と外”を同時に意識し始めると、自分の境界感覚も少しずつ変化していくかもしれません。

いまよりも住まいを少し開くことで、人が喜ぶ姿が見られて嬉しくなったり、日々に張り合いができたり、むしろ囲み切るより安全になったり。そうして個々が可能性を探っていく先には、どんな街の未来があるでしょう。

都市にありながら、田舎の小さな集落のように親密なコミュニティができたり、それでもプライバシーは塩梅よく守られていたり、よその人さえも楽しくなるような街ができていたとしたら、それは上から考えた「街づくり」のおかげではなくて、一人ひとりの「住まいづくり」の集積によるものなんだろうと思います。

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この記事を書いた人

NPO法人南房総リパブリック理事長

1973年、東京都生まれ。1996年、日本女子大学卒業、1998年、同大学大学院修了後、千葉学建築計画事務所勤務を経て建築ライターへ。2014年、株式会社ウィードシード設立。 プライベートでは2007年より家族5人とネコ2匹、その他その時に飼う生きものを連れて「平日は東京で暮らし、週末は千葉県南房総市の里山で暮らす」という二地域居住を実践。東京と南房総を通算約250往復以上する暮らしのなかで、里山での子育てや里山環境の保全・活用、都市農村交流などを考えるようになり、2011年に農家や建築家、教育関係者、造園家、ウェブデザイナー、市役所公務員らと共に任意団体「南房総リパブリック」を設立し、2012年に法人化。現在はNPO法人南房総リパブリック理事長を務める。 メンバーと共に、親と子が一緒になって里山で自然体験学習をする「里山学校」、里山環境でヒト・コト・モノをつなげる拠点「三芳つくるハウス」の運営、南房総市の空き家調査などを手掛ける。 著書に『週末は田舎暮らし ~ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記~』(ダイヤモンド社)、『建築女子が聞く 住まいの金融と税制』(共著・学芸出版社)など。

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