わたし、カエルさわれますけど、何か?
馬場未織
2016/04/29
サンショウウオの卵を持てる自分が、恥ずかしい
先日、某民放の番組に娘たちと一緒に出ました。
『今注目を集めている!週末田舎暮らし』というテーマ。いつどこで注目されているのか? わたしが知らないだけか? と苦笑いしながらも、まあご縁があって内容づくりのお手伝いをしました。
人前に出るのがそれほど得意ではない娘たちに「ちょっと半日つきあって。無理して笑ったりしなくていいから」とお願いをし、レポーターと一緒にサンショウウオの卵を見つけ、春の野草を摘んで食べ、川でガサガサ(網を使った魚獲り)をしたりとお金をかけずに自然を満喫するわたしたち家族の暮らし方を紹介。特に次女はわりと協力的で、「あ、ノビルがあった!」とか、「ドジョウが獲れたよ!」と差し出すなど、頑張って場を盛り上げてくれました。
で。
番組放送の日。「いっぱい活躍してくれたから、楽しそうに映ってるといいね」なんて言いながらテレビをつけると、次第に次女の表情が曇り、ついには泣き出しました。
どうしたの、と驚いて声をかけると、「やっぱり映りたくなかった…映りたくなかった…」と繰り返します。
なんで?
恥かしいの?
なんかあったの?
思わず畳みかけてしまうと、彼女はしくしく泣きながら「だって…サンショウウオの卵持ってるところ映っちゃうでしょ。カエルも持っちゃったでしょ。友だちに見られたらどうしよう」って。
…なんだそりゃ。
どうしようって、別にいいじゃない。
何が問題なのかわからないよ?
「だってさ…カエル嫌いな友だちがいるもん。そのひとにとっては、カエル持つのは変なことじゃん。変なヒトだと思われたら友だちじゃなくなっちゃうかもしれないじゃん」
これを聞いた高校生の兄はうんざりした顔で、「意味わかんね。だからってお前もカエルが嫌いになるのか? おかしいだろ。好きなもんは好きだろ? お前がカエルになるわけでもないだろ? んなことで何か言ってくるヤツがいたら友だちやめろ」と、キツい言葉を返しました。
「そんなこと言わないでよ…その子のことわたし好きなんだもん…だから悪く思われたくないんだもん…」と、ますます泣きじゃくる娘。切ない思いが伝わってきます。
家族はトホホな感じで笑いますが、本人は不安でいっぱいなのでしょう。
メジャーな態度を求める子どもたち
カエルや虫などがいたら、女の子はキャー!と逃げなければおかしいのでしょうか。
次女の魅力は、テントウムシが手に黄色い汁を出したら「おしっこした~かわいい♡」と言い、家族で釣りに行ったときにビニールパックのなかで蠢く(うごめく)餌のアオイソメを手に乗せて、しかも噛まれて「甘噛みした~かわいい♡」と言い、どこまでもニュートラルに生きもの全般を可愛がれるところだと思っていました。少なくとも、わたしは。
でも、それを友だちに知られるのは、どうやら恥ずかしいらしい。
みんながキャー! となることに、キャー! とならないのはヘンなんじゃないか。と。
まったくくだらないなあ、と笑い飛ばしたくなりますが、言ってみればこれは社会の縮図でもあるんですよね。
子どもたちの世界って、オトナと同じかそれ以上に、同調圧力があるものです。「おなじおなじ~」という子たちで集まり、「あの子ちがーう」という子をつくる。 “人は共通の敵を持つと隣の者を味方だと錯覚する”というアレです。
だから、まわりと同じであろうとするのは、団体生活で楽に生きるためのノウハウでもあります。
そういえば、長女に関しても、変化のときがありました。
昔は次女と同じで、大抵の生きものは怖がることなく、触ることもできました。でもある日、いつもなら平気で触っているバッタか何かを見つけたとき、その場にいた友達と一緒に「きゃ~! こわい!」と飛びのいたのです。
ハァ~? こわいだと?
わたしはそのわざとらしい態度にびっくりするやらおかしいやらで、後ろを向いて笑ってしまいました。彼女にも立場があるでしょうからね、一応その態度も尊重したつもりでした。
でも、そうこうするうちに、彼女は少しずつ本当に虫やカエルを触らなくなりました。最近のことはちゃんと確かめていないので分かりませんが、以前のようにミミズをつかんで持ってくるようなことはありません。
小さい頃は触れたのに、オトナになるにしたがって触れなくなる、という話はよく聞きますが、本当にそうなんだなあと思いました。周りと合わせてそうなったのか、気持ち悪いという感覚が育ってそうなるのか。
いずれにしても、親としては少し寂しい思いをしました。
「みんなちがって、みんないい」
虫や爬虫類、両生類などへの興味や愛着に変化があることは、自然なことかもしれません。
でも、「みんなと違うから」「違うと嫌われるかもしれない」と個性の表出を控えるのは、どうだろう、と思うのが本音です。
学校では、「みんなちがって みんないい」と金子みすずの詩を暗唱し、仲間はずれなどがほとんど見られない恵まれた環境で育っている娘ですら、反射的に不安に思うことがあるように、突出することは恐怖だという風潮があるのは事実です。
子どもたちだけじゃない。
大人も、協調という建前のもとで、さまざまな個性や考え方を隠したり、逆に突出しているものを揶揄することがあります。ひとつひとつは小さなことかもしれませんが、そうして安易に全体性を重んじる風潮は、社会を窮屈な方向へと運んでいきます。
思っていることの言えない世界。
みんなと違うと指をさされる世界。
そんなものは誰も目指していないはずなのに、いつの間にか、そうなっていると思うことは、ありませんか。
ちなみに、サンショウウオの卵を手に乗せたことを気に病んでべそべそ泣いていた娘ですが。
さんざん取り乱した後、兄にこう諭されました。
「多分その友だちも、サンショウウオが好きなヒトが嫌い、なんてほんとは言わないんじゃないか? みんなが“もし人と違うことでいじめられたらどうしよう”って思っちゃうことで、何かをやめたり隠したりするようなことになったら、つまんなくね?
人と違う意見の言えない社会はね、実は、同じ人同士でかたまって違う人を攻める、という、戦争にむかう社会なんだと思うよ」。
その言葉は、なぜか心に届いたみたい。
結果的には番組内では本人の姿はたいして使われていなかったし(笑)、もちろん友だちから何か言われることもなく、何事もなかったかのように南房総で生きものを追いかける週末が続いています。
この記事を書いた人
NPO法人南房総リパブリック理事長
1973年、東京都生まれ。1996年、日本女子大学卒業、1998年、同大学大学院修了後、千葉学建築計画事務所勤務を経て建築ライターへ。2014年、株式会社ウィードシード設立。 プライベートでは2007年より家族5人とネコ2匹、その他その時に飼う生きものを連れて「平日は東京で暮らし、週末は千葉県南房総市の里山で暮らす」という二地域居住を実践。東京と南房総を通算約250往復以上する暮らしのなかで、里山での子育てや里山環境の保全・活用、都市農村交流などを考えるようになり、2011年に農家や建築家、教育関係者、造園家、ウェブデザイナー、市役所公務員らと共に任意団体「南房総リパブリック」を設立し、2012年に法人化。現在はNPO法人南房総リパブリック理事長を務める。 メンバーと共に、親と子が一緒になって里山で自然体験学習をする「里山学校」、里山環境でヒト・コト・モノをつなげる拠点「三芳つくるハウス」の運営、南房総市の空き家調査などを手掛ける。 著書に『週末は田舎暮らし ~ゼロからはじめた「二地域居住」奮闘記~』(ダイヤモンド社)、『建築女子が聞く 住まいの金融と税制』(共著・学芸出版社)など。