次から次へと出てくる迷惑系YouTuber、バイトテロがなくならない理由(2/2ページ)
遠山 高史
2021/09/28
「種まき」から「収穫」の間のプロセスを一気に省略
このSNSに代表される、ネット特有の評価システムの問題点は、プロセスを無視しているということだ。
本来、経済的な成功にしろ、第三者からの評価にせよ、それなりの苦労と地道な積み重ねによって得られる事がほとんどであった。評価の裏には、自らの努力による自信と信頼があったはずである。しかし、SNSでは、それらが単純化され、しかも、事が成就するために必要不可欠であったはずの時の経過さえ短縮した。
肉体が体感しなければならないプロセスを、脳のみで完結させていると言い換えてもいい。ただ、コンテンツを配信する人間が、努力していない、と言っているわけではない。要は質が違うのだ。
麦を収穫するまでには、土を耕し、種をまき、雑草を取り、季節をまたいで、手を加える。刈り取りのときも、身体を動かさねばならない。収穫の喜びは、文字通り心身一体である。
SNSは、収穫までのプロセスを飛び越え、労働の部分を著しく削りとった。これほどまでに広範囲で、ダイレクトに人間の欲望に働きかけるシステムはかつてなかった。
多くの人は、脳が主体で手足が従と思いがちであるが、実際は、身体から得られる刺激によって脳の均衡が保たれている。身体を無視すると、脳は正常な判断ができず、妄想と現実との境が曖昧になる。
今や、SNSを利用していないという人のほうが、少数派だろう。
多くの人間が、SNSに依存しているなか、境界線を見失い、自我を暴走させ、社会のルールに反する人間が出てくるのも、仕方がないことなのかもしれない。
武道の教えに、「心技体」という言葉がある。
武道に限らず、実社会で生きるうえでは、心と技と体を分けてはいけない。画面上に表示される数字に一喜一憂するより、大切なことはいくらでもあるのだ。
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この記事を書いた人
精神科医
1946年、新潟県生まれ。千葉大学医学部卒業。精神医療の現場に立ち会う医師の経験をもと雑誌などで執筆活動を行っている。著書に『素朴に生きる人が残る』(大和書房)、『医者がすすめる不養生』(新潮社)などがある。