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NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をより楽しむ

坂東八平氏――“平平合戦”だった源平合戦の生き残りが戦った「鎌倉殿13人」

菊地浩之菊地浩之

2022/03/30

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源平合戦の実態は「平平合戦」。先祖をたどれば平氏に行き着く/左:北条時政 右:上総介広常

源氏の軍勢、実は平氏ばかり

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第4回で源頼朝(演:大泉洋)が挙兵した。

★北条時政・義時父子(演:坂東彌十郎、小栗旬)、★土肥実平(演:阿南健治)等300の兵を率いて、目代(もくだい)の★山木兼隆の館を奇襲して勝利するが、★大庭景親(演:國村隼)、率いる3000の兵と石橋山で合戦に及び敗退する。大庭配下の★梶原景時(演:中村獅童)は落ち武者狩りを命ぜられ、頼朝を見つけるが見逃す。

酒匂川(さかわがわ)の氾濫で合戦に間に合わなかった★三浦義澄(演:佐藤B作)の兵が、頼朝軍に合流。態勢を立て直すために、安房に渡って北上し、★上総介広常(演:佐藤浩市)、★千葉常胤(演:岡本信人)を味方に引き入れる。大庭についていた★畠山重忠(演:中川大志)も降伏してきた。石橋山の敗戦からわずか1カ月半で、頼朝軍は3万の大軍に膨れあがり、鎌倉に入った。

【参考記事】北条氏――源頼朝とともに鎌倉幕府をつくり、支えた一族の系譜【家系図】

名前に★を付けた面々は、先祖をたどれば平氏に行き着く。わりと有名な話なのだが、頼朝の家来はほとんどが平氏なのだ。つまり、源平合戦の実態は「平平合戦」だったのだ。


関東の有力豪族に平氏が多い理由

なぜ、関東の有力豪族は平氏ばかりなのか。

事の発端は、平家の祖・平高望(たいらのたかもち)が上総介(現在の千葉県副知事)に任じられたことに発する。天皇の曾孫という高貴な血筋なので、たちまち現地の有力者となり、任期が過ぎてもそのまま土着して、子どもたちは関東に住み着いた。

あの平将門(たいらのまさかど/903~940)は、この平高望の孫である。将門は追討されたが、その親族の子孫は関東各地に散らばって栄えた。

俗に「坂東八平氏」といって、具体的には千葉、上総、三浦、土肥(どひ)、秩父、大庭(おおば)、梶原、長尾の8氏を指す。このうち、長尾氏を除く7氏が『鎌倉殿の13人』に登場している(畠山重忠が秩父の嫡流)。

上総介広常には名前に「介」の字が付いているが、実は千葉や三浦も千葉介・三浦介と名乗っている。この「介」というのは、地方役所の生え抜きトップ――たとえていうなら、千葉県庁の助役、副知事みたいなもの――をあらわすものだと考えてもらえばいい。

【参考記事】清和源氏――頼朝につながる「武家の棟梁」の原点

源氏と坂東八平氏の力関係は?

これに対し、源氏は京都の藤原摂関家の用心棒のようになり、国司を歴任していた。上下関係は圧倒的に源氏の方が上である。そして、源氏が関東・東北の乱を平定していく過程で、坂東八平氏はその家臣となっていく。

上総介広常の先祖・平忠常が反乱を起こすと、その鎮圧に向かったのは、頼朝の先祖・源頼信だった。実はこの時、平忠常はすでに源頼信の子分になっていたという。頼信が出馬すると、忠常はたちまち降伏。頼信は迅速に乱を平定し、忠常には特段の処罰を加えないという寛大な措置を施し、名声を得た。

源義家が後三年の役(1083年に起こった陸奥・出羽〔東北地方〕を舞台とした戦役)を戦った時、その部下に三浦平太郎為継(みうら・へいたろう・ためつぐ)と鎌倉権五郎景正(かまくら・ごんごろう・かげまさ)がいた。為継(為次)は三浦氏の先祖、景正(景政)は大庭・梶原・長尾氏の先祖だといわれている。その後、大庭一族は平家になびいたが、三浦一族は代々源氏に仕えていたようだ。

骨肉の争いで勝ち残ったのが頼朝

坂東八平氏は源氏に仕え、源平合戦の原動力になったわけだが、一方の源氏一族内部はどうなっていたか。源氏一族は、とにかく骨肉の争いである。殺さなくてもマウントを取ることは忘れない。

頼朝が従兄弟の木曽義仲(演:青木崇高)、異母弟・源義経(演:菅田将暉)を討ったことは有名だが、それのみならず、異母弟・源範頼(演:迫田孝也)を伊豆に配流し、一説には殺害したといわれている。

なぜ、源氏は骨肉の争いを繰り広げたのか。

結論を言ってしまうと、誰が「源氏の棟梁」かが、決まっていなかったから。頼朝は「源氏の棟梁」として担ぎ上げられているので、他に「源氏の棟梁」がいてはまずい。頼朝はよく「源氏の嫡流(=棟梁)」といわれるが、それは頼朝が一族間の闘争に勝ち残ったから。つまり、闘争している間は、頼朝もまたOne of themに過ぎなかったのである。


源頼朝

たしかに、頼朝は河内源氏(つまり源頼義の子孫)としては嫡流と言えなくもないのだが、その祖・源頼信は源満仲(みつなか)の三男である。それを源氏の嫡流と言っていいものなのか。

そして、その理屈が通るなら、源頼義の三男・源義光の子孫が「源氏の嫡流を名乗ってもいいじゃん!」ということになる。実際、義光の子孫・武田信義は『鎌倉殿の13人』の中で「源氏の棟梁」を自称している。

こうなると、「邪魔者は消せ」。もしくは、殺さないまでも勢力を削いでマウントを取るしかない。そして、頼朝が死去すると、今度は坂東八平氏と北条氏(自称平氏)の骨肉の争いがはじまるのである。これこそ平平合戦と呼ぶべきかもしれない。

坂東八平氏系譜

清和源氏系譜

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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