「スマホの2010年代」がわれわれの社会に与えた変動
朝倉 継道
2022/03/25
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2010年代とは何の時代だったのか
90年代、00年代、10年代と、われわれはよく1世紀=100年を10で割った10年ごとを区切りとして、時代の移り変わりを考えたりする。現実として、世のなかはそんな区切りに沿って変わっていくわけではないのだが、さまざまな変化や動きに何となくそれらしい気配は漂っていたりするものだ。
そこで、いまわれわれが振り返る過去直近の「10年」といえば、2010年から19年までの2010年代ということになる。あるいは、ざっとこの間を含んだおよそ10年にわたる期間ということになる。
すると、この2010年代とは、われわれに何をもたらした時代だったのか。何がこの時代にわれわれを変えたのか。その最大の答えといえば、おそらく「スマートフォン」だろう。
このいわば「スマホの2010年代」を挟んで、われわれの社会はある面を大きく変化させている。それは、人間のもつ能力、要求される資質において“共感”がきわめて重要な意味を持つようになったということだ。
2人3脚で広がったスマートフォンとSNS
総務省の「令和2年通信利用動向調査」によると、スマートフォンの世帯単位での保有状況は次のようになっている。
見てのとおり、2010年におけるスマートフォンの世帯単位での保有率は1割を切っていた。それが10年後には9割に迫っている。すなわちこの約10年間は、スマートフォンが爆発的に日本中の人々の手に行き渡った時代といっていい。
さらに、この波に乗ったのがSNSだ。上記データにトピックを重ねてみよう(スマートフォンの世帯単位の保有率はさきほどと同じ数字)。
このとおり、ここからは面白い状況が見てとれる。12年にスマートフォン世帯保有率が前年の約3割から約5割へと一気に増え、翌年すぐさま6割を超えた背景のひとつにはどうやらSNSがある。さらには、15年にもうひと伸びして7割を超えた裏にもSNSの影が見えている。数字は翌年足踏みを見せるが、この時期、デジタル機器を容易に扱える人の手元にはスマホがほぼ行き渡った可能性が低くはない。
こうした動きから、スマートフォンとSNSはかなりの部分において、いわば2人3脚となって互いが互いを引っ張り合いながら、社会への浸透度を急速に深めていった様子がうかがえる。
なお、SNSではないが、その雰囲気も交じるフリマアプリ「メルカリ」のサービス開始は2013年のこととなる。
幸せを描くCMに耐えられない
こうした「SNSを載せた空母のごときスマートフォン」の侵攻によって、われわれの社会のある部分は、2010年代に激動している。
それは、冒頭にも記したとおりだ。人間のもつ能力や資質において“共感”が深刻なほど重要な意味を持つようになった。
個人的な体験から話そう。私はまさにこの2010年代が始まる前後数年にわたって、ある興味深い仕事を任されていた。
某大手情報媒体企業の展開するほぼすべてのネットサービスおよび紙媒体に集まる、クレームも含めたユーザーの声(メール、電話、手紙)を一手に集めて分析する仕事だ。ちなみにその数当時でも年間数万にのぼる。
きわめて守秘責任の重い仕事だったが、いまは時代の証言として一部を述べてもよいだろう。2010年代がそろそろ近づく頃、上記企業の運営する結婚情報媒体に、時折変わったクレームが入るようになった。
「そちらの会社のTVCMに出てくる幸せそうなカップルを観るのが耐えられない」「結婚したくてもできない人も世のなかにはたくさんいる。そういう人の気持ちを考えてほしい」
最初にこの声を目にした際、私も分析チームのほかのメンバーも、皆一様に面食らったものだ。
「そうか、人によってはこういう受け取り方もあるのか」「驚いたが、この声に共感する人は潜在的にはかなり多いかもしれない」
その場にいた昭和生まれの男女4~5人全員が目を覚まされる思いだった。
こうした声が、スマートフォンとSNSの時代にあってはごく自然に万人の目にふれる。それが一気に拡散されたりもする。その過程で隠れていた共感が次々と掘り起こされ、いわゆる炎上も巻き起こる。
結婚情報媒体の広告に幸せそうなカップルが出てくることは、現在においても致し方ないことだろう。しかしながら、仮にそれが男女の平等性に関するデリケートな部分での配慮を欠くような、疵(キズ)をも持つものだったりすると企業は逃げ場を失う。首根っこを掴まれ、即座に公式謝罪する展開ともなるわけだ。
すなわち、ほんの十数年昔に比べ、いまはきわめて「共感」が重い時代となった。企業も個人も、日ごろあらゆる場面で薄氷を踏むようにして周囲に共感を示さなければならないいまという時代は、おそらくスマートフォンとSNSが2010年代を通じて一気にその土台を組み上げている。
アップデートされた『のだめカンタービレ』
そうしたわけで、“スマホパンデミック”後の時代を生きる現在のわれわれは、目の前のさまざまな表現や発言について、「気分を害する人がどこかにいないか?」をくまなく考えることが必須の習慣になっている。
その意味でのオフサイドラインは「スマホの2010年代」を通して驚くほど上がっていて、この間訓練を怠っていた表現者は容易にこれに引っかかる。昨年のオリンピックに絡んでの「オリンピッグ」騒動など、その顕著な例といっていい。
つまり、古い者にとってはなかなかしんどい話だが、世のなかは変わっていないようでいて、変わる部分はそれなりのスピードで激しく変わっている。それがいつの時代も過酷な現実ということだ。
先月、TVドラマにもなった人気漫画『のだめカンタービレ』の作者である二ノ宮知子氏が、同作品の新装版で過去の古い表現を修正したことをSNS上に明かしている。手直しがされたのは、主人公の女性が教育者の立場にある男に胸を掴まれているシーンだ。氏は、これが「今のわたしの感覚」とし、男の手を胸から離し、やや遠ざけた絵に描き直している。すなわち、氏は表現者としての“OS”をしっかりとアップデートできていることになる。
ちなみに、修正された過去の描写は、01~10年の間に連載された同作においては時代的にほぼ他愛ない表現といえた。陽気な年配男による悪ふざけの場面を描くものだったが、しかしながら、職場や学校でのセクハラ被害を経験している女性にあっては、当時より一瞬の動悸さえ感じる目を背けたいシーンであっただろう。つまり、現在であれば当然にNGだ。
なお、こうした創作物における過去にさかのぼっての修正についてはもちろん賛否もある。だがこの件にかぎっては、私も暴走したミルヒー氏(当該キャラクターのニックネームだ)が、やっと長い煉獄生活から救われた気がした。
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この記事を書いた人
コミュニティみらい研究所 代表
小樽商業高校卒。国土交通省(旧運輸省)を経て、株式会社リクルート住宅情報事業部(現SUUMO)へ。在社中より執筆活動を開始。独立後、リクルート住宅総合研究所客員研究員など。2017年まで自ら宅建業も経営。戦前築のアパートの住み込み管理人の息子として育った。「賃貸住宅に暮らす人の幸せを増やすことは、国全体の幸福につながる」と信じている。令和改元を期に、憧れの街だった埼玉県川越市に転居。