1964-2020東京五輪へと続く道路開発1――幻の地下高速「築地~新富町」ルート
立木信(たちき まこと)
2021/05/07
写真/立木 信
川を埋め立て作られた駐車場と公園
東京五輪では東京都、大会組織委員会、国という三者によって大会の準備から、実行までを担うかたちになっているが、一大国家イベントに変わりはない。そのため国をあげて競技場はもとより、関連施設、鉄道や道路といったインフラ設備にいたるものまで官民が一丸となって開発を行う。
前回の1964年の東京五輪においても、東海道新幹線、東京モノレール、首都高速、環状七号線など交通インフラが整備された。しかし、計画通りに着手はしたものの、完成しなかったものもある。
その1つが首都高速道路環状線の新富町ジャンクション(中央区築地1丁目の中央区役所本庁舎付近)を作る構想だった。工事そのものは構想通り行われたものの、今なお長く未利用まま「幻の首都高速」としてその姿をとどめている。
銀座を貫く晴海通りと新大橋道路が交差する築地四丁目交差点。その一角に建つのが「築地本願寺」だ。その周辺は大小さまざまなビルが建ち並ぶ。
また、築地市場が豊洲に移転したあとも、商店や飲食店が身を寄せるように軒を連ねる築地の場外市場エリアは今も健在だ。しかし、そこにひときわ目立つ新しい建物が中央区営の市場である「築地魚河岸」だ。
築地魚河岸 小田原橋棟
この「築地魚河岸 小田原橋棟」から築地本願寺裏を北東方向、新富町方面に目を向けると、ほぼ直線のスペースが開けており、そこは駐車場や公園として利用されている。ここはその昔、旧築地市場あたりまで通じる築地側の支川だった。
本願寺裏は駐車場になっており、遊歩道が整備されている
その名残からか、公園名は「築地川公園」とされている。
また、公園が通りと交差するところには「備前橋」や「暁橋」などの通り橋の欄干、史跡説明が建てられ、そこがかつて川に架けられた橋があったことを今に伝えている。
かつて橋だったことを伝える史跡説明
地下へとつながる舗装道路と突然現れる広場
とはいえ、このあたりを都市計画学者や建築家が見れば、地下にトンネルがあることはすぐに分かるはずだ。そして、戦後の都心の交通・都市計画を俯瞰できるという。
そんな川跡を築地本願寺の裏から進み、備前橋(中央区築地7-1)を越えたあたりまでくると、通行はできないが、一車線の舗装された半地下の道路が現れ、新富町方面に通じるトンネルへ入り込む道路を見ることができる。
そこからさらに新富町方向に進むと現れるのが「築地川公園 多目的広場」である。
この広場は人工地盤の道路面から数メートルほど低い窪地になっており、舗装されていない校庭のようなイメージだ。広場にはバスケットボールのリングがあり、「バスケット公園」と呼ばれているという。
街中に広がる「築地側公園 多目的広場」
この広場は築地本願寺を背にすると、左にカーブして入船橋の下から新富町へ方面に。逆に築地本願寺方面に目を転じれば、同じように片側2車線のボックスカルパートというコンクリートの道路枠が貫通しており、築地本願寺裏方面は備前橋のところにあった半地下の道路がここからつながっていることが分かる。
上に架かるのは入船橋
東本願寺方面につながるトンネル
そして、入船橋を越えたところには首都高都心環状線の新富町出口があり、その出口になっているスロープと合流する。ここまでくると、この通路が首都高速のルートで、直角に曲がるのは、築地川から分かれる運河(支川)を道路として活用しようとした水上都市計画の一部だったと分かる。
首都高「新富町出口」。写真の左の舗装路は「築地側公園」へとつながる
東京メトロ・有楽町線の新富町駅を越えると、すこし立派な橋で首都高都心環状線を跨ぐ橋がある。小豆色した中央区役所本庁舎につながるこの橋は「三吉橋」という。
この三吉橋は三島由紀夫の『橋づくし』にも登場する橋で「それは三又の川筋架せられた珍しい三又の橋」と記されている橋だ。
この橋は関東大震災の後の復興計画の一環として昭和4年に架けられた。そして、この三吉橋から周辺を見渡すと、いたるところに首都高の延伸計画の痕跡が見てとれる。
三吉橋のたもとにある幻の首都高につながるとおぼしき進入路
首都高速環状線。老朽化を感じさせる
築地市場移転と東京五輪で計画復活の兆しも
64年の東京五輪の前に開通した首都高は、当時の高度成長やマイカー・ブームの勢いに乗って、五輪後もさまざまな枝線の計画が公式、非公式にたくさん練られた。この築地と新富町を結ぶ謎のトンネルもその一つだ。
2020東京五輪では首都高の湾岸線を選手村(HARUMI FLAG)の近くの晴海臨海公園まで伸び、工事もなんとか東京五輪には間に合わせた。しかし、このルートはここまでで、都心には続いていない。
実は、この湾岸線に通じる道路は、バブル経済後の93年に臨海副都心開発の1つとしてこのルートを築地、新富町方面に伸ばす構想が都市計画決定されている。その後、バブル崩壊による急激な景気の冷え込みによって、計画は止まっていた。
ところが、築地市場の豊洲移転とそれに伴う市場跡地の再開発計画、今回の東京五輪による相乗効果で、この高速と接続させるために新富町~築地間の首都高の建設着手の機運が高まり、幻の首都高が利用される可能性がでてきている。
江戸時代には、海上埋め立て地を意味した「築地」。この周辺では、旧築地川の河川をそのまま利用するかたちで、この道路が作られた。
そのため京橋~築地~汐留に至るルートは曲がりくねっている。なかでも、銀座6丁目にある新橋演舞場の裏手は大きく曲がりまるでサーキットのカーブのようだ。
半世紀前の1964東京五輪を機に急増した曲がりくねった首都高が、2020東京五輪による一大道路再開発のプロジェクトにつながる可能性がある。
そして、築地の幻の首都高速の建設が、京橋~銀座~汐留の首都高環状線のバイパスになっている「東京高速道路(KK線)」を遊歩道にする銀座の観光資源開発にもつながる可能性もあるというのだが……。
この話は次回「1964-2020東京五輪へと続く道路開発2――昭和の“遺構”を使った銀座・築地の一体開発とは?」でお伝えする。
この記事を書いた人
経済アナリスト
マクロ経済面から経済政策を批評することに定評がある。不動産・株式などの資産市場、国や自治体の財政のバランスシートの分析などに強みを持つ。著書に『若者を喰い物にし続ける社会』(洋泉社)、『世代間最終戦争』(東洋経済新報社)、『地価「最終」暴落』(光文社)などがある。