最澄1200年大遠忌、織田信長の焼き討ちから450年――比叡山の知られざる伝説(2/3ページ)
正木 晃
2021/10/16
慈忍和尚は一つ目一本足の妖怪になった?
慈忍和尚は、正式には尋禅(じんぜん/943-990)といい、良源のあとに、第19世天台座主となった人物である。父は右大臣の藤原師輔、母は雅子内親王という、きわめて高貴な出身だった。むろん、良源の弟子である。
生前はまことに立派な人となりで、座主の地位に就いても、修行をおこたらず、全山の範にされたと伝えられる。ところが、滅後、延暦寺の将来を憂慮するあまり、冥府魔道に身をおとしてしまう。
一つ目一本足の妖怪に変じて、夜な夜な境内を徘徊しては、戒律を犯す僧を、鉦を叩いて威嚇し、比叡山を降りざるをえなくしたという伝承がある。いまでも、東塔北谷にある総持坊の入口の軒下には、一つ目一本足の僧の絵がかかげられているが、これこそ慈忍和尚の変わり果てたすがただという。
こういう話が誕生した背景には、良源の活躍が比叡山延暦寺にもたらした功罪がうかがえる。
良源は一面で世俗の権力を比叡山にもちこむ結果となり、比叡山全体が世俗化の方向へと傾いたからだ。大野出『元三大師御籤本の研究―おみくじを読み解く』によれば、「おみくじ」の原型も、良源が考案したというから、世俗化の口火を切ったことは否定できない。
潔癖な尋禅はそれが嫌でたまらず、抵抗したものの、もはや世俗化の趨勢はとどめがたかった。憤懣をいだいたまま示寂したために、妖怪に変じたというような伝承が生まれたらしい。ひょっとすると、うっぷんが高じて、ひどい神経症にかかり、生前から異常な行動をしめしていた可能性もないではない。
この話は、あくまで「伝説」である。それにしても、良源といい、尋禅といい、平安中期の天台座主には、ふつうではない面がある。今流にいえば、オカルトの影がさしている。しかし、そういうところがなければ、当時の宗教界では生き残れなかったことも、疑いようがない。そして、比叡山もまた、その種の牙城だったのである。
延暦寺と酒のかかわり
ここからは、すこぶる俗な話になる。
「酒は税金を飲んでいるようなものだ」とよくいわれる。現行の酒税は、1キロリットルあたり、ビールは20万円(350mlでは70円)、日本酒は11万円、ウイスキーはアルコール分が40%だと39万円にもなるから、そういわれても仕方ない。ちなみに、酒税の総額は、近年では年間に1.3兆円以上に達する。
事情はいつの時代も変わらない。古今東西、禁酒が金科玉条のイスラム教を信仰している地域をのぞけば、為政者は酒に高い税金をかけて、収益を確保しようとこころみてきた。
とはいっても、徴税はそう簡単ではない。今も昔も、人々はなんとか酒税をまぬがれようと、いろいろな手練手管を講じてきたからだ。
逆にいえば、酒税をちゃんと徴収できれば、為政者にとってこれほどいいことはない。そこで、為政者もあの手この手をつかって、酒税の獲得につとめてきたのである。
では、問題――。
中世の日本では、いったい誰が酒税、そのころの用語でいえば「酒屋役」を徴収していたのか。なお、酒屋は酒を売って得た金品をつかって、「土倉」とよばれた金融業をいとなむ例が多かったので、一括して「土倉酒屋役」とも称されていた。
その答えは寺院や神社だった。
政権中枢があった京都の場合は、天台宗の比叡山延暦寺だった。もう少し正確にいうと、「山徒」とよばれ、高野山の行人と同じように、延暦寺の雑務を担当する下級僧侶が、徴収をおこなっていた。
この土倉酒屋役は、室町時代前期の明徳4年(1393)の段階で、年間に6000貫文、現在の金額に換算して9億円ほどに達した。9億円という金額は、現代の日本ではたいした額とは思えない。しかし、財政規模がいまでは信じられないくらい小さかった室町幕府にとっては、3大財源の一つにかぞえられるくらい、重要だった。
それはともかく、驚くべきは酒税の徴収を、延暦寺が担当していた事実である。仏教では「不飲酒戒」があって、酒を飲むことは戒律で厳しく禁じられていた。にもかかわらず、中世日本の仏教界において、その頂点に立っていた延暦寺が酒税を徴収していたとは、言語道断の事態といっていい。
もっとも、延暦寺を開いた最澄が、遺言にあたる文書のなかで、「酒を飲むな!」と書いているところを見ると、寺内の僧侶が飲酒することはなかば公然だったのかもしれない。
前回ご紹介したとおり、鎌倉時代の東大寺の別当(管長)までつとめた宗性が書きのこした文書を読むと、彼もまたよく酒を飲んでいたようだから、延暦寺にかぎらず、どこでも同じ状態だったのだろう。
この記事を書いた人
宗教学者
1953年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。専門は宗教学(日本・チベット密教)。特に修行における心身変容や図像表現を研究。主著に『お坊さんのための「仏教入門」』『あなたの知らない「仏教」入門』『現代日本語訳 法華経』『現代日本語訳 日蓮の立正安国論』『再興! 日本仏教』『カラーリング・マンダラ』『現代日本語訳空海の秘蔵宝鑰』(いずれも春秋社)、『密教』(講談社)、『マンダラとは何か』(NHK出版)など多数。