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古代から中世の感染症対策は「寺院建立」か「まじない」か

正木 晃正木 晃

2021/06/09

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イメージ/©︎Surachet Shotivaranon・123RF

感染症対策のために建立された大寺院

感染症の流行は、時代を問わず頻繁に起こってきた。天然痘(疱瘡)やペストはもとより、コレラ、腸チフス、はしか、インフルエンザなど、人類に激烈な被害をもたらした感染症は枚挙にいとまがない。

では、こうした感染症の流行にどう対処するか。

現代では医療による対処が常識だが、有効な対処法がほとんどなかった古代や中世では、宗教に頼る場合が多かった。

ひとくちに宗教に頼るといっても、内実はさまざまあった。仏教が圧倒的な力をもっていた古代や中世の日本では、権力の中枢にいた者たちが国立寺院を建立し、その功徳によって、病魔を駆逐しようと試みた。

例えば、天平15年(743)に聖武天皇が造立の詔を発し、天平勝宝4年(752)に完成した東大寺の大仏(盧遮那仏)は、そのころ大流行し、日本の総人口の3分の1くらいが死去したといわれる天然痘を鎮めるために造立された。そしてこのときは、天下万民が救済の対象とされていた。


聖武天皇/御即位10年記念特別展・皇室の名宝 via Wikimedia Commons

しかしほぼ同じ頃に建立された新薬師寺は、天平19年(747)に光明皇后が夫の聖武天皇の病気平癒のために建立したと伝えられる。つまり、天皇個人が救済の対象だった。

ちなみに創建当初の新薬師寺は、想像を絶するくらい大規模だったことが、近年の発掘調査からあきらかになっている。現在の本堂の西方150メートルのところにあった金堂は、横幅が59メートルもあり、現存する東大寺大仏殿に匹敵する規模だった。


光明皇后/via Wikimedia Commons

金堂の正面には、9つの扉が設けられていた。そのうち最も外側の扉の内部には、2体ずつの四天王が安置されていた。ほかの7つの扉には、その内部に薬師如来と日光・月光の菩薩、左右の六体ずつの十二神将が安置されていた。つまり、金堂全体では七体の薬師如来がまつられ、七仏薬師の修法を実施できる構造になっていた。

金堂の薬師如来はみな坐像で、像高は半丈六の6尺3寸。現存の新薬師寺本尊と同じ大きさである。内壁には、薬師如来が経営する浄瑠璃世界の様相が、贅を尽くし描かれていた可能性が高い。また、金堂の南面には、幅が52メートルにも達する大きな石造りの階段があり、あまたの僧侶がいちどきに七体の薬師如来を礼拝できるようになっていた。

このように、権力の頂点に位置する個人の救済だけを目的として大規模な国立寺院が建立された事例は、日本仏教の出発点から見られる。

日本に現存する最古の薬師如来像は、法隆寺金堂像だが、この仏像は光背の銘文によれば、用明天皇の病気平癒を祈って、推古天皇と聖徳太子が丁卯(607)の年に発願したという。ただし、実際の造立年代はもう少し下がるようだ。薬師如来像の最高傑作とされる薬師寺の三造像は、持統天皇の病気平癒を願って、持統天皇11年(697)に造立されている。

時代がずっと降っても、感染症が大流行すると、なんとか鎮めるために、国立寺院が建立された。典型例は京都の天龍寺である。

南北朝の争乱を描いた『太平記』によれば、奈良県の山深い吉野で、怨みを呑んで亡くなった後醍醐天皇の怨霊が夜な夜な光の輪となって京都を襲い、そのせいか多くの人々が病に罹って苦しんでいた。


後醍醐天皇/Miru Yomu Wakaru Nihon No Rekishi 2 Chusei via Wikimedia Commons

足利政権を兄の尊氏とともに主導していた直義までが重い病に伏してしまう。この事態を受けて、尊氏と直義の兄弟からだけでなく、後醍醐天皇からもあつく尊敬されていた禅僧の夢窓疎石が、原因は天皇の怒れる御霊なのだから、天皇の御霊(怨霊)を鎮魂するためにといって、建立を勧めたと書かれている。

この話は事実と思われる。その証拠に16世紀の初めころまで室町幕府は公費を使って、怨霊対策の儀式をいとなみ続けている。

民衆の感染症対策は「まじない」

国立寺院の建立に民衆がかかわった事例は、東大寺の創建や復興などに多少は見られる。しかし、民衆の感染症対策に影響を与えた形跡はほとんどない。古代から中世を経て近代に至るまで、民衆にとって最も重要な感染症対策は実は「まじない」だった。

平城京から土で作られた小さな馬(高さ4.7~17.1センチ)がたくさん出土している。馬が高貴な身分の人物の乗物だったことから、「行疫神(疫病を広めてしまう神)」の乗物とみなされ、「まじない」に使われていた。

使い方は2種類想定されている。

一つは、疫病の流行を事前に防止したり、緩和させるために献じられた可能性。もう一つは、「行疫神」が自由に行動しないように、あらかじめ足を折ってから、「溝」に流した可能性である。水などから大量に出土し、しかも完成品がほぼ発見されていない事実から、後者が有力とみなされている。

平城京から平安京への遷都に先立って、一時期、都城が建設された京都府の長岡京から、人の顔を墨で描いた壺や甕が大量に出土している。描かれた顔は、鬼という説もあれば、外国から襲来する疫病神という説もある。

祭礼では、これらの土器の中に小石を入れ、土器の口を紙で封じたうえで、息を吹き込んで病を小石に移し、川や溝に流していたようだ。出土した人面の数が、古代の都城のなかで突出して多い事実から、長岡京が建設されていたころ、疫病が大流行していたことが分かる。

なかには、現代まで伝えられてきた事例もある。

「疱瘡神送り」――神奈川県藤沢市では、年神(としがみ)の神座(かんざ)に、通常は白い御幣(ごへい)をさしたサンダワラ(米俵の両端を閉じる丸い蓋)をもちいるが、疱瘡神送りの場合は赤い御幣をさしたサンダラワをもちいる。近代になって、種痘が実施されてからは、学校などで種痘を実施した日に、この「まじない」をおこなっていたという。

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この記事を書いた人

宗教学者

1953年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。専門は宗教学(日本・チベット密教)。特に修行における心身変容や図像表現を研究。主著に『お坊さんのための「仏教入門」』『あなたの知らない「仏教」入門』『現代日本語訳 法華経』『現代日本語訳 日蓮の立正安国論』『再興! 日本仏教』『カラーリング・マンダラ』『現代日本語訳空海の秘蔵宝鑰』(いずれも春秋社)、『密教』(講談社)、『マンダラとは何か』(NHK出版)など多数。

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