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浅草・今昔物語 明治維新、戦争、高度経済成長、インバウンド、コロナ…… 時代に合わせて変貌を遂げた街

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写真/立木 信

かつては日本一の歓楽街だった浅草は実は記録ずくめの不思議な街だ。

娯楽では和洋を問わず、女剣劇、SKD(松竹歌劇団)の本拠地、オペラ、活動写真、馬券売り場、演劇、歌舞伎、寄席、落語、漫才、ストリップ、ドリフターズの公演……あらゆるものがあった。また、日本初の電動昇降機(エレベーター)付き観光塔「凌雲閣」など目新しいものも数々作られてきた。

ちなみに、今大ブームになっている『鬼滅の刃』の主人公である竈門炭治郎と、敵の鬼舞辻無惨(ボスキャラ)が遭遇するのも、この浅草なのだ。

『鬼滅の刃』では映画館や演劇、寄席など浅草の賑わいが描かれ、「キネマ」が密集する銀幕(活動写真)の発信基地だったのに今は、なぜか映画館が1つもない。大衆娯楽もテレビの登場で往年の賑わいはなくなってしまった。

中でも時代による浮沈の波が大きい浅草の今を運命づけたのは、関東大震災と東京大空襲だった。わずか半世紀のうちに2度にわたって焼け野原となり、浅草寺の本堂など文化的な建物の数多くが焼失。また、高度成長にも翻弄され、今、コロナ禍でインバウンドの需要も引いてしまった。

そんな浅草を歩いてみた。


現存する浅草演芸ホール

あらゆる娯楽が集積 その始まりは観音伝説

まずは浅草の象徴でもある浅草観音伝説の話から始めよう。

浅草寺の縁起は、推古天皇の飛鳥時代(628年)のころ、漁師の檜前という浜成と竹成の兄弟が、隅田川、現在の駒形橋あたりで観音像を網で掬い上げ、礼拝供養したというのが浅草寺の始まりとされる。

今では想像もできないが、この当時の浅草は周りを海に囲まれた台地で、蔵前あたりも時代とともに陸地になっていった。その昔、浅草では海苔がとれるような海辺だったらしい。

浅草が発展したのは江戸期で、「浅草御蔵」(今の蔵前)に米蔵が設置され、札差が登場したことによる。

地名は歴史を語るというが、文字通り蔵前には、日本全国から集められた米が運び込まれた。ご存じのように武士らへの給料は主に米で支払われたが、この米を金にも換えてくれる札差商人が生まれた。

金融を手掛けるこの商人は、富豪が多く、豪遊する場として浅草が発展してゆく原動力のひとつとなった。

さらに蔵前商人ばかりか、ほかの地域の商人や武士たちも浅草周辺に集うようになり、浅草は人・モノ・金が集まるようになった。地理的に見ても浅草は隅田川や水路で囲まれており、人やモノが集まるには都合がよい。それから江戸、明治、大正から戦後まで浅草にはあらゆる娯楽が集積した地域となった。

シンボル的存在 浅草寺と仲見世 

浅草といえば、その中心は浅草寺で、その周囲に広大な土地や寺を持つ。浅草は寺を中心とするコミュニティだった。浅草寺は第2次大戦中までは天台宗の宗門だったが、1950年に聖観音宗(天台宗系)の単立の寺院として独立、山号を金龍山として本山となっている。

浅草寺が今のようなかたちになったのは、明治政府が廃仏毀釈を進めた1873(明治6)年のこと。境内の土地を公園にしてしまう。浅草寺は境内も含めて国や東京市の管理になり、事実上、所有権は奪われた。

また、竣工時の高さ52メートルの凌雲閣(12階建て)が完成したのは1890(明治23)年のこと。しかし、1923(大正12)年の関東大震災で建物が傾いてしまい撤去された。新橋、向島、神楽坂など東京6花街のひとつが浅草で、今も芸姑を派遣する見番も残っている。


凌雲閣の模型

1903(明治36)年には、日本初の常設映画館の「電気館」ができた。大正時代の六区には映画館や劇場、30前後が軒を連ねた。料理屋が50軒ほど、待合茶屋もおよそ250軒が建ち並び、芸者衆は1000人あまりいたという。また、あまり知られていないが国技館も浅草にあった。

日本初のストリップの常設劇場「ロック座」が浅草六区にできたのは1947(昭和22)年の戦後になってからだ。その後「浅草座」「大都座」「美人座」と続々とストリップ劇場と劇場がオープンした。私設の馬券売り場が400軒もあり、まさに何でもありの場所が浅草だった。


炭治郎と鬼舞辻無残が遭遇した浅草六区の今の景観

その後、娯楽の中心がテレビの時代になると、ストリップショーの間で芸を磨いた芸人たちが人気者となっていく。芸人たちは浅草の劇場で、面白くなければ「引っ込め」と容赦ない罵声を浴びせられ鍛えられてきた。

その中でもピカイチだったのが渥美清で、『男はつらいよ』の映画シリーズ48作(シリーズ総数は50作)はギネスブックにも認定されている。また、浅草のストリップ小屋が育てた最後の芸人がビートたけし(北野武)といわれている。


浅草が育てた渥美清(寅さん)の顔抜きパネル

浅草寺の門前の仲見世の建物は、1927(昭和2)年に東京市が建てた。コンクリート製の当時のモダンな復興建物だ。店舗が建ち並ぶおよそ250メートルの参道は一直線で、日本を代表する門前の景観を形成している。

戦後、土地は寺に戻されたものの、土地はタダ同然で東京都が借り、仲見世の大家として建物を管理してきた。2017年に建物を東京都が寺に売却。店が建ち並ぶ仲見世商店街は宗教関連施設ではなく、商業的な収益施設として都から固定資産税が課税されるようになり、建物の維持管理も寺が行うことになった。そのためこれまで仲見世の1店舗の月の平均家賃2万3000円と安かったものが、一時は桁違いの値上げになると話題になった。

一方、浅草寺には数多くのお堂や祠、地蔵尊があるがその中でもひときわ目を引くのが五重の塔で、これはもともと雷門と奥の交番の間に建っていた。しかし、空襲で本殿とともに消失。塔の背後の景色を考慮して現在の西側に移転した。

浅草寺の本殿の東隣にあるのが「三社祭り」で有名な浅草(あさくさ)神社だ。戦前は重要文化財や国宝に指定されたものも含めて7基の神輿があったが空襲によってすべてが消失。現在ある神輿は1950年以降に奉納されたものだ。

今の浅草の姿と残された昔の浅草

映画産業の斜陽化とともに六区に建ち並んだ映画館の経営が悪化。時代とともに映画館は姿を消した。


浅草の映画館の模型

その跡には商業ビルが建ち、街並みの個性は褪せた。その象徴的な存在が浅草国際劇場で、1985年、その跡地に建てられたのが浅草ビューホテルだ。

ほかにも30メートル、50メートルを超えるような高層ホテル、高層マンション、商業施設が次々と建設され、浅草寺や市民は、高層建築に携わった関係者を相手に景観を守る訴訟を起こして注目された。中には浅草寺が貸していた土地にも高いビルが計画された。しかし、台東区の都市計画審議会、法廷でも寺や景観派擁護の言い分の多くは通らなかった。

今や景観は地域を支える観光産業の貴重な財産のひとつだ。だが、浅草寺の西側はグレーのコンクリートのビル群が屏風のように建ち並ぶ。浅草に住む早稲田大学講師(都市論)の川西崇行さんは、「張りぼて的な景観形成と都市計画制度失敗の見本」という。


寺の景観にビルがが入り込む

そんな中でも、昔の浅草の雰囲気を残すところもある。

浅草寺の東側の通路に建つラブホテルの一軒は、実は浅草寺の所有する土地(借地)に建つ。ホテルの前は近年、公園のような喫煙所となり、眺望が開け、「入り口が丸見え…」として知られる物件にもなっているそうだ。


寺の敷地に建つラブホテル

また、モダンアート的な建物が浅草寺の裏手にひっそりとある。明治以前から浅草寺の一帯にあった寺々が入っている建物だ。


寺マンションの入り口

小さい寺のマンションともいえるこの建物の「境内」の道はちょっと入り組んだカーブが作られ、見どころ満点だ。


浅草寺の裏手の寺々

だが、それを知らず、寺の裏手を見て回らない参拝者や観光客も少なくない。中には空襲の際に火の粉や焼夷弾から守り抜いた建物もある。

浅草は二流の街になるかに見えたが、今も昭和の匂いが感じられる場所もある。とはいえ、高層ビルや雑居ビルに取り囲まれ、古き良き日本の景観はあまり残っていない。それでも、未だにそれを感じさせるのは、ほかの街の開発スピードが速く、浅草の変化がゆっくりとしているからなのだ。

かつて浅草が変化してきたように、インバウンドによる訪日観光客によって変わりつつあった。しかし、新型コロナによって外国人観光客は激減。浅草はインバウンド需要に頼り切ったあり方を変えようと模索している。

「浅草らしさ」とは何か? 

浅草の風景はデジタルとインバウンドによって知らず知らずのうちに変えられてきた日本の縮図のようにも見える。

 

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この記事を書いた人

経済アナリスト

マクロ経済面から経済政策を批評することに定評がある。不動産・株式などの資産市場、国や自治体の財政のバランスシートの分析などに強みを持つ。著書に『若者を喰い物にし続ける社会』(洋泉社)、『世代間最終戦争』(東洋経済新報社)、『地価「最終」暴落』(光文社)などがある。

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